第八十二話『この先のこと』
大陸暦六一六年、大魚の月初旬―
ベクォン公爵領に足を踏み入れても、迎撃に飛んで来る敵はいなかった。それがひどく不気味で、かえって不安と警戒感を煽っている。早春が過ぎ、冷たい北風も鳴りを潜める。新たな芽吹きの季節を待ちわびていたかのように、鳥は空を舞い、獣は地を躍り、虫は這い出て来ていた。
「良い日和だな、ニック。戦じゃなかったらやりたい事がたくさんある」
「どんな事だ?」
「馬で遠乗りに出掛けてもいいし、城を出て畑仕事してもいい。雪が解けたら春蒔き麦や野菜の種まきで忙しいだろうからな」
ニックと馬を並べるコンラッドが言った。彼は十五歳の頃に上等教育を受けるためにボートミールの学院に編入して来たため、それまではニバラク侯爵領で晴耕雨読の日々を過ごしていた。学院での授業に付いて行くのがやっとという印象を与えるが、地元では指折りの知恵者らしい。実際、コンラッドの有する二ツ星が、それを証明していた。
「ニック殿、前方に軍勢との報告がありました」
他愛ない会話をしながら馬を進めていると、先行させていたハーム軍の斥候を指揮していたビフが駆け付けて来た。
「所属と兵力はどのくらいだ?」
「所属は確認出来ておりませんが、数はおよそ二〇〇〇です」
「ベクォン軍だと完全に捕捉されているな。前進停止、各部隊に戦闘態勢を取るように伝えてくれ。ビフ殿はもう一度斥候を出してくれ。軍勢の方向と編成、陣容を出来る限り調べるように」
「分かりました」
ビフが駆け去ると、ニックはコンラッドやコリンズら指揮官に指示を出して態勢を整えた。仮に前方の二〇〇〇の兵が敵ならば、一二〇〇ほどの兵しか連れていないニックは、速やかに後退しなければならない。これと言って遮蔽物のない平原に敷かれた道という、動きやすさ以外に利点のない場所にいる以上、少しでも迎撃に適した茂みや林に潜んだ方が良い。
「ニック、使えそうな茂みなら、半刻ほど戻る必要があるぞ」
「半刻か。騎兵を出されたら逃げ切れるか怪しいな」
「予備の盾を輜重に括り付けて周囲に廻らせるってのはどうだ?」
「簡易防壁か。ハーム王国統一前の戦で、ニバラク軍が用いたとされる対騎兵戦術だな。だが、相手の主力が騎兵と決まったわけではない」
コンラッドの提案に、ニックは理解を示しつつも難色を示した。先んじて騎兵対策を講じた所で、歩兵や弓兵による攻撃を受ける可能性もある上、簡易防壁は輜重を並べた後に馬を外すため、機動力が皆無になる。あくまで輜重を用いた即席の壁なので、火矢や砲撃、術式による攻撃には弱い。
「だが、騎兵を確認してから簡易防壁を展開するのでは間に合わないんじゃないか?」
「それもそうだな……」
ひとつ読み違えるだけで破滅的な顛末が待ち構えているだけに、判断は慎重になる。指折り数えるほどの思考の最中、再び前方から馬蹄の音が聞こえてきた。ビフが駆け付けて来たのだ。
「どうされた、随分と早かったが」
「前方に確認された軍勢はハーム軍でした」
「ハーム軍という事は、キャシック将軍の軍か」
「えぇ、こちらに向かって来ています」
「よし、合流しよう。コンラッド、全軍に進軍の再開を」
ニックはコンラッドに行軍を再開させると、ビフと馬首を並べて気持ち軽やかに進み出した。
「お久しぶりですな、王子」
「王子は止せ、もうハーム王家もミア伯爵家も関係なくなった身だ」
半年ぶりの再会に際し、ニックが最初に告げた言葉だった。キャシックからすれば、ニックが生まれた時からずっと王子に仕える臣下として接してきただけに、衝撃がないわけではない。
「ミリアムの件、偽首を用意してまで対処したらしいが、王母の追求があったのか?」
「直接あったわけではありませんが、ボートミール城内の事情は常に把握できるよう、人を配しておりましたので、前の陛下がお隠れになったという情報が入った時、すぐに対処致しました。アリシア様に関しても、レッターが手を回しているはずです」
「そうか。しかし、将軍の兵にも王母の手の者は潜んでいただろう。どうやって目を盗んだのだ?」
「ホツキネ防衛戦の折に炙り出し、戦闘の中で始末しました。今の私が連れている一七〇〇の兵は、誰もが信用に値する者達です」
キャシックの報告に、ニックはなるほどと返し、鮮やかかつ周到な手際に感嘆した。自身は、ホーンモルまでの道中で炙り出した者を始末した程度で油断していたからだ。
「とにかく、よく来てくれた。まだ日も高いので、もう少し軍を進めてから陣を張ろう」
「はっ、近くに丁度良い川辺もあります。案内しましょう」
久方ぶりに、かつての王子と将軍が並んで進み出す。両軍の将兵三〇〇〇は感無量で従っていた。
その日の夜は、ニックとキャシックの再会を祝い、ささやかな宴が催されていた。敵地であり、春先の風が吹く時節柄、夜襲には最大限の注意を払いながらも、将軍用の幕舎には主たる面々が席に着いていた。
上座にニックとキャシック、ミリアムが座り、ハーム軍側にビフとコリンズ、ニバラク軍側にコンラッドとハンスが着いた。エリスとシャーリーンは敵襲に備えて警備を買って出ている。
「キャシック将軍、貴殿との再会を祝って」
「ニック様との再会を祝いましょう」
「私も、兄上様と将軍が再び会えた事をお祝いしますわ」
上座の三人が葡萄酒の杯を掲げると、下座の四人もそれに応じた。最初の一杯は祝いの席なら麦酒、宴席なら葡萄酒というのがハーム王国の習いである。麦と葡萄は豊穣神メーシアが最初に人類にもたらした恵みとされているためだ。程よく舌を撫でる甘みと喉を突く酸味、鼻から抜ける香りは年月を重ねて熟成されている。
「ニック様、酒に弱いのはお変わりありませんか?」
「見くびってもらっては困るな。こちらとてニバラクの荒々しい祝い事に揉まれてきたのだ」
からかい口調のキャシックに対し、ニックは鼻息を強くして答える。かつての関係では到底見られない光景であったが、互いに割り切った節があった。
「揉まれてきたとは言うが、天聖節の祝いでは真っ先に酔い潰れてたんだがな。なぁ、ハンス」
「そうだな。しかし、あれは麦酒は麦酒でも、麦の蒸留酒をそのまま飲ませたのが原因だろう」
コンラッドとハンスが笑い飛ばす。麦酒でも過ぎれば倒れるというニックに、蒸留酒を割らずに飲ませるというのは、半ば殺人的行為ではある。キャシックもビフもコリンズも、苦笑いで応じるしかなかった。
「いや、あれは私が調子に乗って行けると踏んだのが原因だ」
「……兄上様、酔うと調子に乗る癖、治っておりませんのね」
ミリアムが呆れた様子で返す。ちなみに、彼女だけは未成年なので特別に葡萄酒ではなく絞り汁である。
それからしばらく、互いの半年間を振り返った。ニックもキャシックも、鉄腕のラリーの暗躍に苦しめられた事は共通しており、今後もモノゲア帝国の動きには注意しなければならないという結論に至った。前王妃マルシアの件は、宴席には相応しくないとして伏せておいた。
「さて、随分と話し込んでしまったな」
顔を赤らめながら、普段よりも饒舌だったニックが、素面の声色に戻る。そろそろお開きかと誰もが思った矢先、ニックの鋭い視線がコンラッドに飛んだ。
「コンラッド、お前に頼みがある」
「何だよニック、藪から棒に」
「戦が終わったら、ミリアムを娶って欲しい」
ニックの言葉に、宴席は水を打ったように静まり返った。
「おいおいニック、酔ってるのか?」
「だいぶ覚めた。そしてこれは本気だ」
「兄上様、私にも説明して下さい」
ミリアムも立ち上がってニックを睨む。コンラッドを嫌っているという事ではないが、突然の発言に面喰っているのだ。
「ミリアムはキャシック将軍の一計で、公には死んだ事になっているし、城には戻れない。戦が終われば行き先を失ってしまう。だから身分を偽り、ニバラク家に嫁がせて欲しい。ニバラク家は末子相続でコンラッドには弟もいる。侯爵夫人として公に出る事も少ない」
コンラッドは暫し呆然としていたが、戸惑うミリアムの顔を見て、眉間に皺を寄せて考え込んだ。しかし、ニックの言う事に間違いはなかった。男はともかく、王族貴族の女が政略的価値を失うという意味は、しばしば凄惨な結果に繋がる。大きく息を吐き出すと、大股で上座に詰め寄った。
「承知した。このコンラッド・ニバラク、元ハーム王家第三王女ミリアムを貰い受ける」
「……分かりましたわ。私も、兄上様に従います。コンラッド様、よろしくお願いしますわ」
二人とも、置かれた状況を理解していた。故に、ニックの頼みを断れなかった。この先のことも、全て考えられていたのだ。春先の一陣の風は、意外な所を吹き抜けていた。
大陸暦六一六年、大魚の月初旬ー
月は見えないけど風もない、拍子抜けするくらいに何事もなかった、なんてシャーリーンとぼやいてたけど、とんでもない風が吹くもんだ。
傭兵エリスの手記『大魚の月二日』




