第七十六話『思い一つ』
大陸暦六一六年、清水の月中旬-
会議が終わり、本当に一息ついたとばかりに胸の内に溜まった空気を吐き出したのは、ミリアムだった。異様に長く感じられる溜め息の中に、鬱屈した思いが全て込められているようにも見える。吐き出して顔を上げると、平時と変わらない明るい表情に戻っていた。
「皆様、もう日も傾いてますわ。夕食の準備にしましょう」
「そうだね、あたしと姫様はここしばらく、干し肉と酢漬けばかりだったんだ。まだ出陣して間もないだろ?なんか良いものあるんじゃないかい?」
ミリアムの提案に、エリスが便乗する。そこまで大した違いはないぞ、とニックが応じるも、二人にとっては大人数で卓を囲う事の方が大きかった。陣の設営時から炊事担当には準備をさせており、温かいものの一つでもあればという意味もあるだろう。
「干し肉に川魚の燻製、酢漬け……確かに、大きな違いはありませんわね」
「言っただろう。街では雪で保存した野菜もあるが、持ち歩くには不向きだ」
「それでも、温かいものを皆で頂けるだけでも違いますわ」
ミリアムの言葉に、ニックはここ十日ばかりの妹の環境を想い、口をつぐんだ。実母の亡霊を葬り、父王の死に自分達の排除という衝撃的な出来事の連続に、心が痛まないはずがない。平時と変わらず振る舞うその笑顔の裏で、どれほど泣いているのか-
「ミリアム様、戦が終わったら、ニバラク領に来るといい。狩人の飯が出るぞ」
「狩人の飯ですか?」
「あぁ。干し肉にする前の鹿や猪の肉や臓物を使うんだ。オレは二ツ星の狩人だから、腕は悪くないぞ」
「楽しみにしていますわ」
助け船を出したのはコンラッドだった。本人がどう思っているかは不明だが、ニックからすれば気まずい雰囲気になりかけた所を救った事に変わりはない。努めて冷静な顔の裏で心穏やかではないニックの目を、エリスの琥珀色の視線が捉えていた。
夕食も終わり、茶が配られる。ミリアムは初めて見る深緑色の茶に、まずこれが飲める物なのかを配膳した者に尋ねる程には驚きを隠せなかった。
「ニバラク領では、お茶の色も違いますのね」
「そいつはカッサーナ皇国の茶だ。一部の地域では、葉の色のまま出る茶を飲むらしい」
「ん、中々に渋いですわね……」
「あぁ、ミリアム様にはちょっと早かったかな。こいつは眠気覚ましにもなる強めの茶だ」
コンラッドの説明に、ニックは引っ掛かる物を覚えた。この茶に含まれる成分は眠気覚ましである事は事実だが、同時にもう一つの効能がある。興奮作用である。そして、エリスはその作用を知っていたか、あるいは気付いたようだった。
「そういえば、王子様も姫様も、もう王家も爵位も関係ないんだってね?」
「そうだな、ミア伯爵家が反乱に荷担した今、私の王位継承権も母方の爵位も無いだろう」
「私はエリス同様、キャシック将軍の計らいで脱出させて貰えましたわ」
「つまり、今のあなたは王子でもなく貴族にもなれない、ただのニック……いや、ニバラクの英雄ニックってところね?」
エリスの目の色が艶やかになった。ニックの感じた引っ掛かる物が、明確な輪郭線を帯びる。エリスの杯は空になっていた。猫亜人は猫ほどではないが、熱いものには弱いはずだった。慌ててコンラッドに振り向くと、残された右目と口許を目一杯歪めて薄ら笑いを浮かべている。
「お前、聖降ろしの時は一緒しなかったよなぁ。コリンズから聞いたぜ、ホツキネ砦でそこのエリスさんに絡まれたって話」
「コンラッド、コリンズ、お前達……ハンス!」
露骨に顔を背けるコリンズを見て、ニックはハンスに助け船を求めた。
「彼女がそういう性格という事は、以前から聞いている。腹を決めろ、英雄ニック」
「お前という奴は……ビフ殿!」
わざわざ英雄とまで付け加えたハンスも頼れない-ニックは年長者であるビフに振った。
「いやぁ、私がニック様と同じくらいの頃は、そういう事が一番の楽しみみたいな所もありましたからなぁ。シャーリーン殿もそうであろう」
「そうですね。狩りに罪人の刑罰に秘め事、生命に関わる行事は盛り上がります」
完全に退路を断たれた、呆然とするしかないニックは、きょとんとした顔で辺りを見回すミリアムに助けを求めるわけにはいかず、エリスに首根を掴まれて引きずられるがままになった。ハンスが見送りとばかりについて行く。しばらくして、扉の閉まる音と、戻ってきたハンスの足音だけが聞こえてきた。
「ずいぶん静かだな、ハンス」
「あぁ、あの様子だとどんな無様な声を上げるか分からない。扉に静寂の術式を施してきた。二刻は物音一つ無いだろう」
「せめてもの情けって奴か。オレは聞いてみたかったけどな」
「曲がりなりにも行軍中だ。指揮官の情けない姿は士気に関わる」
ニックの反応を楽しみにしていたコンラッドは、少し惜しそうに口を尖らせた。状況が掴めないでいるミリアムがシャーリーンに尋ねたが、吹けるはずのない口笛で誤魔化されてしまった。自分だけ蚊帳の外に置かれたような気がして、少しの間黙っていたが、思い出したようにコンラッドに尋ねた。
「そういえば、コンラッド様は兄上様とニバラク領に向かった際、大臣のご遺体を一緒に運んだのでしたわね」
「あぁ、色々あったが、爺様を故郷で眠らせる事が出来たよ」
「……差し支えなければお聞きしたいのですが……」
「爺さんの事か。この際だから話しておこう」
先程までとは打って変わって、コンラッドの表情は真剣なものになった。その目付きは鋭く、ミリアムも思わず身構えた。
「爺様の死因は服毒による自害だ。その原因は、当時の王妃に手を出した事による自責と思われるが、一つ不可解な点がある。爺様はニバラク家の男にしては貞操に関して厳格でな。いくらなんでもいきなり王妃に手を出すなんて考えられない。王妃の手の者を粗方排除した上で調べた結果、術式を掛けられた残りが検出された」
「術式……もしかして、精神系の術式ですか?」
「あぁ。魅了の術式、それもかなり強力なタイプだ。受けたら間違いなく言いなりにされる程で、かなり長く魔力が残留してたくらいだ。ただ自分を襲わせるだけなら、それほど強くする必要はない。もう一つの目的があったと思われる」
「何か、秘密を喋らせるとか、そういう類いになりますわね」
「そう、王妃が爺様から聞き出したのは、恐らく陛下の秘密だろう」
国王の秘密と聞いて、ミリアムには思い当たる節があった。二人目の王妃マルシアを死に至らしめ、三人目の王妃、今の王母サラを迎え入れた経緯は、キャシック将軍から聞かされている。
「父上様の秘密……しかし、何故それを聞き出したと思ったのですか?」
「爺様の死後、ボートミール城内の空気が変わったと聞く」
「えぇ、確かに大規模な人員配置の変更がありましたわ。大臣の下で働いていた文官の多くが更迭、左遷を余儀なくされましたわ。そういえば、その辺りから父上様も元気がなくなりましたわね……」
そこまで話した所で、ミリアムはハッとしてコンラッドの顔を見た。真剣な眼差しはそのままで、鋭さを増している。
「もし、王母が現国王を擁立するために仕組んだ謀の中に、爺様の死があるというのなら、オレは国王の為には戦えない。オレはニックの為に戦う、そう決めたんだ」
ハーム軍の関係者も少なくない中で、コンラッドは強い口調で言い放った。ビフもコリンズも思うところがあるようで、その言葉を否定しようとはしない。少なくとも、現状では両軍の利害は一致している。
「これで良かったのか」
「まぁね。あんたが一緒だと、胸の内を明かさないタイプよ。それに、姫様……いや、ミリアムにも教えておく必要もあったしね」
「どこまで知られていたのか、本当に貴女の腕前には驚かされる」
通路の闇に身を隠したニックとエリスは、コンラッドの言葉をしっかりと聞いていた。
大陸暦六一六年、清水の月中旬-
食器を片付けに行った下女から聞いたんだが、ニック様は大人の男になったらしい。カッサーナ皇国には、英雄色を好むという言葉があるくらいだし、特に問題ないだろう。
ニバラク侯爵領軍兵士の呟き『清水の月十七日』




