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第七十二話『英雄誕生』

 大陸暦六一六年、清水の月上旬-

 ルーテにて英気を養いつつ、軍の再編も行っていたニックの元へ、伝書竜のテーヴァが飛来した。

 前年の暮れに一度来たきりで、しばらく顔を会わせていなかっただけに、ニックもテーヴァも喜びをあらわにしていた。


「よく来たな。お前が来たという事は、王都で何か動きがあったのか?」


 後頭部と下顎を撫でながら、ニックはテーヴァの首から下がっている袋に目をやった。中から取り出されたのは二通の手紙で、一通はミリアム達からであったが、もう一通を目にした途端、ニックの表情が強張った。封蝋を一目見ただけで分かる、父王ハロルド三世のものであった。


「父上から……?」


 封を切った瞬間、ニックは指先から寒気を感じた。嫌な予感を幾つも重ねたような、背筋を舐めるような不快感だった。胸騒ぎに心拍数が上がる。広げて読み進め、その予感は的中した。周囲の者もニックの表情が尋常でない事に気付き、手紙の内容を覗き見る。


「父上が……亡くなられた……」


 ニックの言葉に誰もが振り向き、色を失った。空気まで凍りついたような沈黙に染まる。そして、二枚目はサラの字で書き写され、ハロルド三世の印が捺された遺言状の写し、三枚目はミア家の反逆と今後の軍の指揮に関する命令書、四枚目はその委任状であった。


「ミア伯爵家に縁のある人間は、政治及び軍事の場から外される運びとなるようだ。私はハーム軍の司令官より罷免の上、王位継承権も喪う事となるそうだ」


 ニックは書類を副官らに手渡し、努めて冷静に振る舞った。幾度となく深呼吸を繰り返し、頭に上る血を抑える。しかし、内容を確認した副官は驚くほど早く鮮やかに手のひらを返した。付近の兵にニックの捕縛を命じたのだ。これには、冷静に努めていたニックも感情が表に出る。


「何をする!」

「何も、今のあなたは軍の指揮権も王位継承権もない、反逆者の家にルーツを持つ者だ。これ以上の混乱が広がる前に、ご退場願いましょう」


 冷徹に言い放った副官の表情に、ニックは一つの確信を得た。


「母上の手の者か……!」

「えぇ、あなたが十名ほどの処断で流れを寄せたと感じていた時、それこそ我が方の一手が深く差し込まれていたのです」

「あの母上の手の者は蜥蜴の尻尾か」


 副官は何も答えず、ニックの移送を命じた。そして、ニバラク侯爵軍に先んじて委任状をかざす。


「これは、新たな国王となったグレン陛下の委任状である。ニバラク侯爵軍はハーム王国軍の指揮下にて行動せよとの仰せつけだ。これを拒む事は、王家への反逆に等しいと思ってもらおう」


 周囲のハーム兵が剣や槍を構え、委任状を通じて王家の意思を誇示する。コリンズは従わざるを得ず、ハンスも状況の変化に付いていくのが精一杯だった。

 次の瞬間、掲げられた委任状が副官の手にいた上半分を残して切り落とされた。その場の誰もが唖然とする中、ニックを捕縛していた兵二人が殴り倒される。委任状を切り落としたのはドネッドだった。


「親父殿、オレは何があってもニックに付いて行くって言ったが、親父殿まで一緒に来てどうすんだよ」

「お前がニック様に従うのはお前の選んだ道だ。そして、これはわしの選んだ道だ」


 ニックを解放したコンラッドは、制止しようと掛かってきた兵士を籠手で打ち倒すと、盾を奪って右手に構えた。そして、まだ三〇〇人は下らないハーム兵を相手に立ち回り始めたのだ。右手に盾、左手に籠手という出で立ちは、防御に徹するという意味ではない。守れる鈍器で暴れ回るという意味だった。


「悪いが、ニバラク侯爵家はその決定には従えんよ。一度は奪われた我が所領を取り返して下さった英雄を、母方の実家の内紛と反逆が原因でご退場など、従えるはずがない」

「貴様、何を言っているのか分かっているのか?その所領もニバラク家の爵位も、全ては王家への忠誠への対価であろう!」

「そうだな。確かにそうだ。だが、ニバラクの忠誠は王家や国に対してのものだ。王妃の傀儡に過ぎぬ幼君に対するものではない」


 言い放ったドネッドの気迫に押された副官は、目を見開いて顔を紅潮させるほかなかった。その気迫は乱闘の渦中にあったコンラッドとハーム兵にまで伝播し、喧騒が嘘のように静まり返っていた。


「我らニバラクの民は、英雄ニック様を仰ぐ。者共、腹を括って付いてこい」


 決して張り上げてはいない、しかし、臓腑を底から震わせるような力強い声に、居合わせた全てのニバラクの民がドネッドに従った。左脚を傷めて杖で体を支えているような初老の男が、今は誰よりも強く見える。委任状を切り捨てた剣は、杖に仕込まれていた。切っ先を向けられた副官は、もう何も返す言葉が無かった。


「ニック様、ご命令を」


 ドネッドの言葉に、ニックは小さく頷いて応じる。その顔は既にハーム王国の王子ではなく、ニバラクの英雄になっていた。


「全てのハーム兵に継ぐ。王妃……いや、王母の手の者がいたら、直ちに突き出せ。今後の状況次第では、褒美も取らせる」


 ニックの言葉は、ひどく冷徹であった。冷酷と言ってもいいほど、かつての慈悲と明朗さを感じさせないほどの冷たさを纏っている。そして、腰の剣を引き抜くと、未だに困惑の渦中にいた副官の首を撥ね飛ばした。返り血がニックの緑の髪を赤黒く汚す。端正な顔立ちも同様に返り血に濡れたが、今のニックには大した問題にはならなかった。


「まだ残っているのだろう。庇い立てすると言うのなら、全員このように首だけになって貰わねばならんな」


 ニックは副官だった者の首を、ハーム兵の中に投げ込んだ。どよめきと共に、兵士達の間に困惑が広がってゆく。少しの間を置いて、周囲から槍の石突きで小突かれるように押し出された兵士が十名ほど現れた。突き出された兵士は一様に怯えており、ニックが彼らを見る目はおぞましいほどに冷たかった。


「結構な数の回し者が潜んでいたな……これより、我々はニバラク侯爵領を脅かすベクォン軍を迎え撃つ。お前達には、一番槍の名誉を与えよう」


 ニックは遠回しに死を宣告した。ドネッドは厳かな表情で頷き、コンラッドは鼻血を拭って得意満面に笑みを浮かべる。ハンスは何とか状況を整理しつつも、とりあえずニックがリーダーである以上に異論は無かった。


「ニック様、僕はどうすれば良いのでしょう」

「コリンズ、君の父はマルキヤ将軍だ。適当な理由を付けて王都に戻っても構わない」


 コリンズの不安げな問い掛けに、ニックは努めて穏やかな声で返した。だが、その声色の奥には、今まで見せた事もないような感情が渦巻いている。生来の小心が、コリンズの表情を強張らせる。生唾を飲み込み、目を見開いて大きく息を吸い込んだ。肺を巡る空気が淀んだ思考を洗い流す。


「僕は、ニック様に従います。マルキヤ家に戻っても船乗りになれない以上、先はありませんし、今すぐ父と対立するとも限りません」

「分かった。今一度、よろしく頼む」


 ニックの目に、一抹の光が戻る。表情にも柔らかさが戻り、垣間見えた黒く渦巻く感情も鳴りを潜めている。

 結果として、ニックはニバラク侯爵領軍の指揮官となり、ハーム王国軍は王母サラの息の掛かっていない者から指揮官を選抜し、三〇〇の兵を率いて従わせる事になった。ハーム王子改めニバラクの英雄ニックの初陣は、すぐそこまで迫っていた。

大陸暦六一六年、清水の月上旬―

ハーム国王ハロルドⅢ世の崩御、ミア家の反逆加担に伴う政変により、ニックは王位継承権と爵位を喪失。ニバラクの英雄として立つ。

   ニバラク侯爵領史『清水の月九日』

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