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第七十一話『覚悟と愛』

 大陸暦六一六年、清水の月初旬-

 後退を続けるニック達の足取りは、砦を離れた頃より幾らか軽くなっていた。治療を終えた負傷者が歩けるようになった事と、陣をほとんどそのままにして荷物を軽くしていた事が大きかった。実際、現在の物資はほとんどが兵糧や水、飼い葉に薬や寝藁であり、矢すら一〇〇本の束を数えるほどしか残っていなかった。


「このままの早さなら、一両日中にはルーテに辿り着ける。シャーリーンには先んじてニバラク侯爵に掛け合って貰っているから、戻ったらすぐに休ませて貰えるだろう」

「そいつは良い。流石に乾いたパンとぬるい水、味気ない干し肉が続いたからな」


 ニックの言葉に、コンラッドは軽口で応えた。片目によるバランスにも随分と慣れたのか、既にニックと馬を並べるほどにまで調子が戻っていた。この友人の軽さもまた、ニックにとっては心地よく感じられる。残された時間に焦るハンスも、この二人を眺めている間は心を穏やかに保っていられた。


 ニバラク侯爵領ルーテに帰りついたのは、それから一日半後の事だった。歩けない負傷者は数えるほどにまで減っていた。砦での防戦による損害も含め、最終的に帰ってこれたのは一〇〇〇に少し数える程度であった。ニックとしては初めての敗戦に、やはり気が重くなっていた。


「よくぞ戻られました」

「すまない侯爵。兵を半数近く失ってしまった」

「お気になさいますな、とまでは言いませんが、気負いすぎてもいけません。ニバラクの地では(まれ)にある事です」


 城内にて待っていたニバラク侯爵ドネッドは左手で杖を着きながらも、右手でニックの背中に手を添えていた。そして、後に続いたコンラッドの顔を見ても、さして驚く様子も見せなかった。


「驚かないんだな、親父殿」

「ニバラク侯爵家の男は、大抵どこかでこんな風になる。わしのこの脚も、狩人一〇〇人連れていって、森の主に手酷くやられた時のものだしな」


 コンラッドの左目を覆うように巻かれた布を見て、ドネッドは何かを察していたようだった。そして、ニックに言った『稀にある事』とは、森の主に挑んだ事であるのも付け加えていた。


「昔話は後にしましょう、ニック様はお体を休めて下さい。その様子では、ろくに寝ておらぬでしょう」


 ドネッドの視線がニックを捉える。食事も睡眠も満足でない事は一瞬で見抜かれた。安心からか、足元さえおぼつかなくなったニックが、使用人に肩を担がれて客間へと通される。後の仕事は副官が引き継ぎ、コリンズがそれを手伝う形となった。コンラッドはドネッドに連れられて衣装部屋へと消えた。


「その布切れでは格好がつかん。お前に眼帯をくれてやろう。ご先祖様の良いものがあるぞ」

「ご先祖様で目をやられたって言ったら、ひい祖父さんのさらに先代か?」

「そうだ、カッサーナとモノゲアの戦争にも参戦したアーネスト・ニバラクのものだ」


 ドネッドが取り出したのは、白銀の鋲で紋様が描かれた、黒い革の眼帯であった。

 これの持ち主だったアーネスト・ニバラクとは、火の百年間と呼ばれた時代、モノゲア帝国に侵略されたカッサーナ皇国を救うために義勇兵を募って参戦し、多くの首級を挙げたニバラク家きっての勇者である。戦の中で左目を失い、片目になったという。


「ご先祖様の武勇にあやかるとするか。親父殿、貰っていくぜ」


 コンラッドはドネッドから眼帯を受け取ると、身に付けて見せた。すると、どこか不思議な感覚に襲われたのだ。


「親父殿、こいつは何だ。左目が見えてるかのようだ」

「そいつは、鷹目(たかのめ)の術式陣が描かれている。記録によれば、それを着けていると、右目だけでも物の前後がよく分かるとの事だ」


 本来、片目では物を平面にしか見る事が出来なくなる。だが、視力を強化する鷹目の術式は、片目でありながら両目で見ているように物が見えるという。コンラッドが『左目でも見えているようだ』と言ったのは、視界こそ片目分ではあったが、それでも両目で見ているように捉えられたのだ。


「これなら、まだニックの力になれそうだな」

「お前は随分と、ニック様に入れ込んでいるな」

「まぁな、子供の頃からの付き合いだし、今は国がこんな状態だ。あいつはすぐに色々と抱え込む。少しは楽にしてやらないと」

「そうか、それならいい」


 熱の込もったコンラッドの言葉に、ドネッドは少し冷ややかな表情で返した。


「どうしたんだよ、親父殿」

「お前が、ニック様の王位継承者という立場にすり寄る目的ではないと分かって、安心したのだよ」

「そいつは心外だな。例えニックが王族じゃなくたって、オレはあいつの親友だ」

「そうか、ならば言おう。心して聞け」


 ドネッドの視線が鋭くなる。コンラッドは剣呑な雰囲気に一瞬たじろぎ、生唾を飲み込んだ。


「ミア家が反乱に加勢した。詳細は不明だが、伯爵が暗殺されたらしい」

「ミア家と言うと、ジリボンとテーキス地方の境になってるシオンタ川河口の港町を持ってたな。厄介な事になりそうだ」

「それだけではないぞ。ニック様の母方の家が王家に弓を引いたとなれば、ミア家はもちろん、ニック様の御身も安泰とは言えん」


 ドネッドは語気を強め、視線を刃のように鋭く研ぎ澄ませる。背筋に悪寒が走りながらも、コンラッドに男の二言は無かった。


「それでも、オレはニックを助ける。オレの存在がニバラク家の障害になるようなら、その時は遠慮なく縁を切ってくれ。ニバラク家は末子相続だ、ガラハドでもジェラルドでも、オレよりは上手くやってくれる」

「……あぁ、やはりお前はわしの息子、ニバラクの男だ。心して、ニック様の力となれ」


 父の言葉に、コンラッドはまっすぐに視線を返し、何も言わなかった。言葉など要らなかったからだ。そして、扉一枚隔てた向こう側で事の次第を聞いていたハンスもまた、残された時間の使い道を決めたようだった。



 客間のソファーに横たえられたニックは、連日の疲れからか、程なくしてまどろみの中に意識を溶かしていた。重く垂れ込めた思考が脳裏からずるりと抜け落ち、白い渦に飲み込まれる感触の中、ニックは聞き覚えのある声を聞いた。


「ニック、私よ。あなたの母、マルシアよ。反魂の術式で蘇ったけど、ミリアムにまた冥府に戻して貰ったわ。今はミランダ前王妃のお父様……宮廷魔術師だったセオドア様の助力で、あなたに声を届けているの」


 懐かしい声に、ニックは飛び起きそうになった。しかし、体は指一本動かす事が出来ない。目覚めてはいない、眠っていながらも声だけが聞こえ、それを頭が認識している。


「あまり時間はないから、手短に伝えるわ。ミリアムは私に解呪の術式を使ったわ。これなら、反魂の術式を打ち消せるみたい。もし、他に同じような目に遭っている人がいたら、使ってあげて。死者を呼び戻すなど、あってはならない事よ。」


 そこにいる、確かな存在を感じる。ニックは今すぐに飛び起きたい衝動に駆られていたが、瞼すら微動だにしなかった。


「私も蘇ったけど、苦しみの方が大きかったわ。ミリアムに会えた事で、もう消えるべきだと思っていたの。ニック、あなたに会えなかった事が心残りだったけど、あなたは強い子だから、きっと大丈夫って信じてるわ。それでも辛くなったら、周りの人を頼りなさい。負けないでね、愛しいニック……」


 母の気配が消え、脳裏をかき混ぜていた白い渦が嘘のように失せる。ニックは反射的に目を覚まし、上体を起こした。マルシアはもうそこにはいない、しかし、懐かしい声と頬に口付けた温もりが、確かに残っている。


「母上……」


 ニックは懐かしさと母恋しさ、そして悔しさと寂しさから泣き崩れ、嗚咽に肩を震わせていた。

大陸暦六一六年、清水の月初旬―

ニック様がひどく疲れた顔で帰られた。敗北の原因を問い詰めるべきという声もあるが、とにかく今は休ませるべきだと思った。ところで、しっかりと暖められて隙間風も吹かないような部屋で、一瞬通り過ぎた寒気は何だったんだろう。

   ルーテ城内の使用人の手記『清水の月七日』

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