第七十話『苦しい状況』
大陸暦六一六年、清水の月初旬-
ニック率いるハーム軍一二〇〇の兵は、連日に渡ってベクォン軍二〇〇〇の屍兵による猛攻を受けていた。『流れる銀』の量やラリーの術式行使の限界からか、既に倒れた兵を新たに屍兵とされるような事は無く、一度の攻撃に曝される時間は決して長くはない。しかし空腹も疲れも感じず、昼夜を問わない行軍が可能な屍兵は、生きた人間から見れば脅威以外の何物でもなかった。
「申し上げます。先程の戦闘で東側の陣が突破されました」
「やはり、陣だけで籠城は無理か。もう少し時間があれば、負傷者を動かせるようになるのだが……」
砦の周囲には、入り切らなかった兵のための陣が敷かれており、中でも敵から最も狙われやすい東側から南側に掛けては柵や土塁を増して設置させていた。また、各々の陣は回廊状の通路で繋がっているため、兵の融通が効くようになっている。東側の陣を突破されたとはいえ、直ちに砦を攻撃されるという事では無かった。それでも、危機的状況である事に変わりはない。
「僭越ながら申し上げます。状況が状況ゆえ、動けぬ者は置いて行くという選択肢も考えなければならないかと」
「それは出来ない。動けない者を見捨てれば、まだ動ける者にも負傷で捨てられるという恐怖心を植え付けかねない」
副官の提案を、ニックは二つ返事で却下した。動けない負傷者の中には、自分が原因で軍が停滞している事に心を痛めている者もおり、動ける兵の中には、動けない者のために不利な状況を強いられている事に苛立っている者もいるだろう。ニックはそうした気持ちがある事も理解していたが、同時にそれが全てではない事も理解していた。
「申し上げます。ハンス様率いる魔法兵部隊により敵の撃退に成功しましたが、今の戦闘で魔晶石の備蓄が一割を切りました。陣の補修を含めると資材も残りわずかです」
割って入った伝令の報告に、ニックはいよいよ進退窮まったという顔になった。留まって戦うにも兵は足りず、退くにも負傷者を置いていかなければならなくなる。太陽は低い南の空に座しており、うっすらとした冬の雲を重ねた姿は弱々しい。晴れ渡らない空模様は、今のニックの心境のようであった。副官の細められた視線は、言葉にせずとも何が言いたいのか手に取るように分かる。
「分かった、ルーテまで退く。負傷者は輜重に乗せ、魔晶石は全て治療のために使うよう伝えよ。陣は畳まずに篝火を多めに焚き、夜陰に乗じて出発だ。不要な荷は全て置いていく」
「はっ」
ニックは苦々しい表情で命じると、副官達にも撤退を急ぐよう伝えた。そこへ、先程の戦闘を終えたばかりのハンスが駆け込んで来たのだ。傍らにはコンラッドもおり、足取りが不安定なためコリンズが肩を貸している。
「ご苦労だった、ハンス。すまないが、ルーテまで下がる」
「あぁ、僕もこれ以上の防戦は無理だと怒鳴り込もうと思ってた所だ」
ハンスは努めて冷静な表情だったが、言葉の節々に垣間見える荒々しさから、それなりの苛立ちはあるようだった。ハーム軍に合流してから常に冷静沈着な印象を与えていたが、元来はやや感情的な性格である。
「負傷者も治るより担ぎ込まれる方が多い。何より、屍兵に噛まれたら屍兵になるんじゃないか、とかで疑心暗鬼に陥ってる奴もいて、砦の中の空気がまずい事になってる」
コリンズに肩を貸されたコンラッドが訴える。片目を失った事による視界の変化や微妙なバランスの違いが、彼の足取りを不安定にしていた。
「分かった。こちらから出向いて風説や迷信による統率の乱れを正しておこう」
「すまねぇな、無理はするなよ。ニバラク領出身の兵にはオレからもなんとか言っておく」
「頼む。ところでハンス、聞きたい事がある」
ニックはまた一つ仕事が増えた事への重さを感じさせる事なく、ハンスに向き直った。どこからその体力と気力が出ているのか、ハンスは疑問に思わずにはいられなかった。
「敵の屍兵は一度に攻勢を掛けられる数に限りがあるようだ。反魂の術式に制約のようなものがあるのだろうが、何か知らないか?」
「知らない事はないが、僕の体感によるところが多いから、正確さには欠けるが……この術式は、行使者への負担が桁違いに大きい」
「尋常ではない魔力が必要というのは知っているが」
「それは行使の際の魔力だ。死者を呼び戻す際に、少なくとも上物の魔晶石以上の魔力がいる。『流れる銀』は死者の肉体の再構築とそれの維持に必要なんだ。二〇〇〇人もの屍兵を維持するとなると、想像を絶する『流れる銀』が必要になる」
ハンスの説明は出来る限りの分かりやすさを意識したものだったが、要所要所で頷けるのはコリンズくらいで、ニックもなんとか自分なりに噛み砕き、コンラッドは鳩が豆弾を喰らったような顔をしていた。
「厳密には『流れる銀』に内包される魔力が必要になる。魔晶石では賄いきれないんだ」
「ちょっと待ってくれ。ハンス、君は反魂の術式で呼び戻されてから、どうやって自分を維持しているんだ?」
「僕自身の魔力だ。ベクォン家は純粋な魔法使いの一族だからな。もうしばらくの間なら、自分を維持する事が出来る」
ハンスは得意げに答えたが、ニックはその表情にわずかな陰りというか、焦りのようなものを感じ取っていた。魔晶石の枯渇で苛立ちを覚えるという事は、彼に残された時間は決して多くはない。
「……って事は、奴らの『流れる銀』が切れるまで時間を稼げばなんとかなるのか?」
「いや、そうもいかない。シャーリーンに偵察を頼んだ際、南西の方角に山道を見つけたそうだ。ビルカ山岳の鉱山地帯に繋がっている可能性がある」
「つまり、補給は出来なくもない……ってところか」
やはり楽観視は出来ないと、コンラッドも困り果てた顔で天を仰ぐ。
「とにかく、一度ルーテまで退いて体勢の立て直しだ。ハンスとコリンズは撤退の指揮を取ってくれ。コンラッド、負傷者達に説明をする。行くぞ」
ニックは指示を出すと、コリンズに代わってコンラッドに肩を貸す。ハンスとコリンズは、ニックの足取りがふらついている事を見逃さなかった。コンラッドの体が重い事だけではない。二人は、この砦に逃げ込んでからというもの、ニックが寝るどころか食事もまともに摂っていない事を思い出していた。
「む、一度に動かせる屍兵が半分を切ったか……わし程の者でも、長時間の行使は難しいか」
ベクォン軍の陣でも、苦しい状況は発生していた。屍兵を回収するまで、に思った以上の時間が掛かった上に、攻撃に参加出来た者も一〇〇〇にも満たない。ラリー一人で反魂の術式を維持しているのだから、その負担は並大抵のものではない。本来なら、あの一戦でニック達を討ち取っていたはずだった。
「あの思い切りの良さと、後退を支えた者達……只者ではなかった」
一筋縄では行かない、長期戦を覚悟しなければならないと生唾を飲み込んだ矢先、ラウルが物陰から染み出るように現れた。
「苦戦しているようだな」
「ヒヨッ子と甘く見ていたわけではありませんでしたが、自分にいささか慢心があったようです」
「悪い報せだ。マルシアが消滅し、モッツが討ち取られた」
「わしの反魂の術式を打ち消した者がいるのですか」
ラウルからの報せに、ラリーは思わず食い付いた。『神の奇跡を宿した杖』の宝珠を用いて行使した反魂の術式の効果を消し去った者がいるという事に、驚きを隠せなかったからだ。
「ニックの妹、ミリアムだ。よいか、ラリー。必ずニックを仕留めよ。『流れる銀』の補給は必要なだけくれてやる」
「はっ……」
「しかし、お前ほどの者でもやはり疲れるようだな。これを渡しておく、必要な時に使え」
ラウルはラリーの手に、小袋を握らせた。袋越しの感触からして、丸薬か何かだろう。ラリーはこれを使う事がないように、と密かに決めた。彼にとっても、敵はハーム軍だけではなかったのだ。
大陸暦六一六年、清水の月初旬―
術式の事とかよくわからないけど、あれだけの数の屍兵を動かすってのは、掘っ立て小屋くらいの石材ゴーレムを一〇〇体動かし続けるのと同じくらい疲れるんだとか。そりゃぁ毎晩、泥のように寝てるわけだ。
ベクォン軍兵士の手記『清水の月五日』




