第六十九話『二つの決着』
大陸暦六一六年、清水の月初旬-
黄昏時に注ぎ込む、硬い西陽の光がミリアムの背中を照らす。十四歳の小さな体から伸びる影が、マルシアの足元を捉えた。傍らのモッツが腰の剣に手を伸ばす。影を通じて捕縛、操作する類の術式が存在するからだ。しかし、マントを脱ぎ捨て、杖や腕輪といった魔晶石の筒を備えるような物を何一つ持っていない、まさに丸腰である事を強調されると、柄に手を添えるより先には踏み込めなかった。
「ミリアム、大きくなったわね」
「はい。今は離れていますが、兄上様も大きくなりました」
ミリアムとマルシアは共に歩み寄り、程近い距離で互いの顔を見合わせた。母から見た娘は自分の幼い頃を思わせる明朗さを漂わせながらも、うっすらと紅を帯びた化粧の具合に、大人になりつつある複雑さを感じる。娘から見た母はボートミール城内に飾られている肖像画のように美しい。しかし、生きた人間の見せる気が無いことは大きな違和感となっていた。
「本当に、大きくなったわね……」
マルシアはもう一歩を踏み出し、ミリアムを抱きしめた。母の声色は違和感なく、生きた人間の声だった。遠く幼い日の温もりに埋もれ、懐かしい香りにミリアムの決意は揺らぎ掛けていた。数歩後ろのエリスは警戒を強め、フードの下で密かに目を細める。しかし、それが杞憂に終わったのは、ミリアムの後姿がうっすらと淡い紅色に発光したからだった。
「何かに勘付いたね、姫様」
ミリアムの決意を確かなものにしたのは、単純に腹を決めたからではない。懐かしい香りの奥に、腐敗臭が漂っていたのだ。死相からなる臭いではない。その臭いを感じたからこそ、母を解き放たなければならない。
「母上様、私が母上様を眠らせようとしていると言ったら、止めますか?」
「……いいえ、あなたになら……ううん、あなたにこそ、私を止めて欲しいわ」
「ごめんなさい、母上様」
「謝らないで。私はあなたの大きくなった姿を見る事が出来て、幸せよ。ニックに会えなかったのは残念だけど……」
ミリアムが顔を上げ、マルシアは目を合わせる。泣き出しそうな娘の体は淡い紅色に輝いていた。化粧に魔晶石の粉を混ぜ、全身に塗っていたのだ。この量なら、ある程度の術式を一回だけ使う事が出来る。ミリアムの目から、大粒の涙がこぼれた。涙声でもう一度「ごめんなさい」とだけ言うと、娘は母の胸に顔を埋めた。
「解呪の術式」
母娘から眩いばかりの光が放たれ、辺り一面を染め上げる。ミリアムの腕の中で、母の感触が消えてゆく。柔らかさも、温かさも、懐かしい香りも、全てが幻であったかのように、立ち昇る白い光に溶けるように消えていった。
「何が起きている!?」
モッツは剣を抜いたが、誰に向けていいか分からなかった。ただ呆然と光が収まるのを待つしかない。薄らぐ白光の中、その場の誰もがマルシアと共に昇りゆく、女兵士の姿を見た。
「ごめんなさいね、貴女を巻き込んでしまったわ」
「いえ、マルシア様がお気になさる事ではありません。私も、マルシア様の苦しみを知る事が出来ました。さぁ、逝きましょう。ご一緒します」
ベクォン軍の装束に身を包んだ女兵士に連れられるように、マルシアは光の彼方へと消え去り、同時に辺りを包んでいた白光が何も無かったかのように収まった。膝をついて泣きじゃくるミリアムの腕に残された、マルシアの衣服と女兵士のものだった骨、そして『流れる銀』の形作る染みだけが残されていた。
「何をした……何をしたのだ……!」
モッツは腕をわななかせ、震える切っ先をミリアムに向けた。
「捕らえよ!抵抗するならば殺せ!」
一時呆然としていたベクォン兵が、モッツの悲鳴に近い命令で我に返り、剣や槍を構えてミリアムに襲い掛かった。殺到する兵の声に顔を上げたミリアムの目に、十近い切っ先が映る。しかし、その刃が彼女に届く事は無かった。槍の穂先が切り落とされ、続く刃で持ち手の兵の首が舞う。
「よく頑張ったよ姫様、後は任せな」
黄昏時の黄金色にも、血飛沫の赤にも染まらない、琥珀色の残光を輝かせた疾風がベクォン兵の一団を駆け抜け、絶叫と悲鳴で辺りを包み込んだ。夕陽を照り返した三日月の如き刀が踊り、手足や首が宙を舞った。返り血に塗れたマントを脱ぎ捨て、エリスがモッツの前に立つ。
「将軍、出番だよ!」
エリスの啖呵に、屋根の上から飛び降りてきたキャシックが並んだ。モッツはじめベクォン兵がたじろぐ。
「そのようだな。我が勇敢なるハーム兵よ、掛かれ!」
キャシックが銀の剣を抜いて掲げると、大通りに繋がる路地からハーム兵五〇〇がなだれ込んできた。ギネッシーオは街道の大通りを中心に格子状の路地が伸びているため、大通りに出るのは容易である。ミリアムの来訪に即応出来たのは三〇〇、さらに動員すれば最大二〇〇〇を誇るベクォン軍だったが、ここにいないはずのハーム軍の出現に正確な数の把握が出来ず、混乱に陥っていた。
「オリビア、残りの兵を準備させろ!」
「は、はい!」
モッツはオリビアを下がらせ、兵の動員に向かわせる。その間にもハーム兵はベクォン兵に襲い掛かり、次々と血祭に上げていた。交戦距離は恐ろしいほどに近く、弓兵も魔法兵も慌てて短剣を抜くが、繰り出された槍の餌食になった。浮き足立っては事前に取り決めた指示系統も混乱し、柔軟性を失って徒に討たれるばかりであった。
「モッツ、貴様はここで仕留める!」
「おのれキャシック!何故、貴様がここに!」
キャシックが振り下ろした剣を、モッツが黒い刃で受け止める。袈裟懸け、払い、突き、幾度かのぶつかり合いの後に両者は衝突し、鍔迫り合いしながら互いに顔を寄せた。
「貴様は街道の砦にいるはずだ、何故ここにいる!」
「影武者と偽兵だ!砦が見られやすいのなら、見せてやればいいだけの事!」
「貴様……!マルシア様を喪う事の意味が分かっているのか!」
モッツの目が血走り、剣を押す力が強くなる。キャシックの踏ん張った足が僅かに後ずさった。
「国王の罪を質し、モノゲア帝国の魔手を取り除き、国を洗い清めるために必要な方だったのだぞ!このままでは、我らがハーム王国は帝国の犬に成り下がるぞ!」
「笑止!二人の王妃を蘇らせた力こそ、帝国の力ではないか!貴様達こそ帝国の犬に他ならん!」
「ぐっ……貴様!」
キャシックの反論に、モッツは返す言葉を失った。キャシックの眼光は鋭さを増し、それに合わせるように剣にも力が宿る。勢いよく押し返し、鍔迫り合いから解放された両者は距離を取った。しかし、軽やかな後ろ跳びのキャシックに対し、モッツはたたらを踏む形であった。
「どうしたモッツ、ベクォン公爵に可愛がられて腑抜けにでもなったか。今なら私がまた鍛え直してやるぞ?」
「黙れ!貴様こそ国王に顎で使われ、ちっぽけな爵位への対価で忠誠を誓うのであろう!」
モッツの言葉にキャシックは目を見開いたが、僅かな時間で呼吸を整え直した。自身の忠誠よりもキャシック家に対する侮辱の方が気に障ったようだった。
「私の、キャシック家の忠誠はハーム王国にある。陛下が罪深くとも、ニック様は正しき道を歩まれる。私の剣と忠誠は、その正しき道の礎となれば良い!」
「抜かせ!」
激昂したモッツの突きがキャシックに迫る。キャシックは半身になって突き出される剣を弾き、返す刃を払ってモッツの首を刎ね飛ばした。相手の勢いを利用して、弾いた返し刃で薙ぎ払う。キャシックの得意とする剣技であった。
「敵将モッツは、この銀騎将キャシックが討ち取った!」
キャシックが剣を掲げると、ハーム軍は一斉にときの声を上げた。同時に、これ以上の形勢逆転は困難と踏んだオリビアにより、ベクォン軍は全軍撤退した。かくしてギネッシーオは奪還され、ベクォン軍に大きな痛手を負わせる事も出来た。代償は決して小さくは無かったが、価値ある勝利であると思う他なかった。
大陸暦六一六年、清水の月初旬―
分かっていたんだよ、マルシア様がお亡くなりになっていた事も、自分達が見ているマルシア様が本物ではない事も。それでも、皆あの御方が好きだったんだよ。
ギネッシーオ住民の言葉『清水の月二日』




