第六十八話『黄昏色の舞台』
大陸暦六一六年、清水の月初旬-
ビルカ山岳の街道都市ギネッシーオにて行軍の足を止め、一休みしていたのはベクォン軍だった。
公爵の反攻作戦によって出撃したモッツ率いる二〇〇〇の兵は、一戦も交える事なくハーム軍を撤退に追いやっていた。その要因こそ、前王妃マルシアである。ハーム国内には、未だマルシアこそ王妃であると論ずる者が少なくなく、困惑するギネッシーオの民を抱えての戦闘は不利と踏んだキャシックは、あえて後退する道を選んだのだ。
無血開城から十日、マルシアによる人心掌握は功を奏し、反国王の機運は高まりつつあった。
「それにしても、妙だな」
「妙とは、何がですかな?」
「キャシックの出方だ。ギネッシーオをこんなにもあっさりと手放せる程度に置きながら、一月も何をしていたのか、だ」
司令部代わりに借り入れた宿屋の一室で、モッツはキャシックの動向を訝しんでいた。
「それでしたら、これの可能性があります」
「これは……ビルカ山岳の地図か」
副官が机に広げた地図に、モッツは目を細めた。ホツキネからギネッシーオに続く道の途中から、一本の細い道が伸びている。地図の上では、その道は小さな鉱山を複数経由し、ニバラク侯爵領へと繋がっている。
「これは少々古い地図なので、今もこの道が使えるかは定かではありません。しかし、仮にこの道が使えるならば、キャシック将軍はニック王子殿下と連携を取る事もありましょう」
ビルカ山岳によって分断されていると思っていた地域が繋がる、道の規模によっては兵站線も塗り変わる可能性がある。危機感を覚えたモッツは、地図から顔を上げて目を光らせた。
「ハーム軍の動向はどうだ?」
「はっ、ここから一日ほど離れた砦付近に軍を集結させております」
「先程の地図にあった道の近くか、土地も平坦で騎兵戦闘には申し分ないな」
「キャシック将軍は騎兵の将です。正面からぶつかるおつもりですか?」
副官の言葉に、モッツは黙って頷いた。マルシアの威光で後退させ続けようと、どこかでキャシック本人を叩かなくてはならない。避けようがないのであれば、障害は早いうちに取り除いた方が良いというのが、モッツの判断であった。
「キャシックは私が直々に叩く。ミリアム王女はマルシア様とオリビアに任せれば対処出来るだろう。そうなれば、残るは互角の兵のぶつかり合いだ」
「はっ……」
「私が一騎討ちに出れば、お前達に指揮を任せる事もあるだろう。抜かりはないな?」
「それは問題ありません。私が討たれても、その場で後任に切り替えられるよう、手を回しております」
モッツがハーム軍との戦いにおいて強く意識したのは、統率を失わせずに戦闘を継続する方法であった。ごく少数の英雄的な存在に左右される事は避けられないが、振り回されてはならない。誰が戦っても狂いのない戦果を出せる方が良い、そう考えていた。そのため、副官や将校には指揮権の優先順位を明確に定めており、部隊間の連絡手段も複数用意している。
最悪の場合、自分さえ駒のひとつに過ぎないという捉え方さえしているのが、モッツという男だった。その不安定な心は、部屋を照らす蝋燭の灯火のように、ふとした瞬間に危うく揺れる。
「ところで、マルシア様はいかがされている?」
「はっ、市井の者と交流を深めております」
「ミア家は武人の家だ。本来ならば堅苦しい場所に収まるよりも、然るべき所で生きていたいであろう」
モッツは窓の外に目をやり、街道に近い大通りを眺めた。行き交う人々の中でも、マルシアの気品と明朗さは霞む事がなく、遠い日のままで立ち振る舞う姿に、懐かしさから涙する者までいた。
「明朝、追撃を掛ける。今夜は兵をしっかり休ませておけ」
「はっ」
副官に指示を出すと、モッツの心は窓の外で楽しげに舞い遊ぶマルシアに向けられた。輝きを取り戻したかつての王妃は、多くの民に慕われる存在となっていた。出来る事なら、ハームもベクォンも関係なく、マルシアと平穏な時を過ごしたい。モッツの本心は彼女への想いで溢れていた。
ギネッシーオから一日ほど離れた街道沿いの砦付近には、ハーム軍二〇〇〇が陣を張っていた。砦は街道や周辺の見晴らしもよく、逆に言えば視認しやすい目立つ立地であった。そのため、少し離れた茂みには、おおよそベクォン軍の斥候が潜んでいると見て間違いない。
「見られているかな」
「恐らくは」
今頃、ギネッシーオを制圧したベクォン軍にも、自分達の情報は筒抜けだろう。ハーム軍の幕舎にて座する金毛の犬亜人が言った。目鼻立ちや背格好こそキャシックに似ており、銀騎将の鎧まで着込んだその姿は、遠目に見れば見分けがつかない。だが、その犬亜人は年若く、傍らの副官に幾度となく流し目で不安を訴えていた。
「不安を面に出すでない。無事に終われば、恩賞を約束する」
副官は犬亜人の若者に釘を刺した。このキャシックの影武者は、そもそも兵士ですらなかった。近隣の農村で見繕った若者で、その家の年収の一割で話をつけて借りてきたのだ。その時、幕舎に若い娘が入ってきた。ミリアムによく似た娘で、やはり緊張した面持ちである。
「あ、あたしも他の人とそれっぽく話してるようなフリしてきました」
「ご苦労、今しばらくの辛抱だ。もう少し堪えてくれ」
彼女も同様で、ミリアムの影武者を任されている。そして、陣中の兵のうち五〇〇名がホツキネ砦の守備兵や、近隣から駆り出してきた村人であった。化けている当人だけでなく、影武者の管理を一任された副官もまた、気が気ではなかった。
街道都市に、金色の夕陽が射し込んだ。大通りは山吹色に染まり、淡い群青の影が伸びる。マルシアが顔色の伺えない少女と相対したのは、偶然ではなかった。防寒のフードを目深に被り、同様に顔を隠した猫亜人を連れている。少女がフードを脱ぐ。小麦色の波打つ髪、あどけなさを残しつつも大人へと向かう輪郭線、そして自分と同じ血筋を感じさせる顔立ち―
「本当に、変わりませんのね。母上様」
ミリアムだった。逆光で顔色は薄暗くも、ハーム王家の血と武家の名門ミア家の血が通っているだけあって、視線の鋭さは折り紙付きである。マルシアは彼女が三歳の時に死亡したため、成長した姿を知らない。しかし、その気迫は確かに自分の血を引いていると確信出来るものだった。
「……もしかして、ミリアム?」
「はい。母上様のお顔は肖像画で拝見していましたわ」
異変を嗅ぎ付けたベクォン兵がマルシアに駆け寄り、ミリアムの存在を認めて伝令を飛ばす。程なくして即応出来る兵が大通りを埋めるような勢いで現れた。剣を抜き槍を構え、弓に矢をつがえる者もいる。
「数は二〇〇から三〇〇、流石のあたしでも無理だよ」
「分かっていますわ。でも、この状況を打破出来るのは私だけです」
傍らの猫亜人の正体はもちろんエリスであり、彼女もまたマントの下で剣を抜いている。
「何事だ!」
少し遅れて、モッツがオリビアを伴って駆け付けた。マルシアは右手一つで居並ぶ兵を制し、ミリアム達とは十歩の距離を置いている。最前列の兵が、モッツに状況を説明する。黒騎将の目が王女の姿を捉えた。ミリアムもモッツに対しては鋭い視線を投げ返す。彼女が一人でベクォン軍の注意を集めている間に、エリスは大通りから覗く方々の路地や建物の屋根に目配せをした。
「役者は揃った、後はあんたの舞台さ」
エリスの囁く声が耳朶を打つ。ミリアムは生唾一つ飲み込むと、一歩前に踏み出した。
大陸暦六一六年、清水の月初旬―
将軍の影武者をやってくれって言われて、本当に緊張が止まらない。敵どころか味方にも気付かれないようにって、無理に決まってるだろう。色々と手を回してくれるお偉いさんも大変だな。
キャシック将軍の影武者の言葉『清水の月二日』




