第四十五話『夜襲』
大陸暦六一五年、天秤の月中旬―
キトリヤ軍陣地を夜襲したニック率いるハーム軍四〇〇の兵により、夜の闇に沈む狩人の森に一粒の輝きが落とされた。北側に自分の天幕を設けたライネルは、駆けつけた兵により起こされた。
「どうした、何があった!」
「一大事です!東門より敵襲、兵糧や物資の備蓄に火をつけられました!」
「動ける者を総動員させ、敵の撃破と倉庫の消火を急がせよ!」
東側からやって来た兵に指示を出して下がらせると、鎧を着る暇もなく剣だけを携え、天幕を出る。
空が燃えていた。キトリヤ軍三〇〇〇の兵を支える兵糧と物資が赤々とした炎に次々と舐め取られ、炭と灰と煙に消えてゆく。呆然と立ち尽くすライネルの元へ、今度は南から兵が駆けつけた。
「申し上げます!南側の兵舎からも火が!」
「何だと!?見張りは何をしていた!?」
「東門からの侵入者に気を取られていた所、南側にも敵が回りこんでいたと思われます!」
「どういう事だ……一体、どこの軍だ……」
ライネルはここに来ても、未だにハーム軍、ニバラク軍の総勢が一〇〇〇に少し数えた程度としか思っていなかった。そのうちの一〇〇〇名はナーウィンで戦った。つまり、まともな作戦行動が取れるほどの人数は、敵には残っていない、というのが彼の考えであった。仮にナーウィンから進軍されても、西側にニバラク捕虜兵の収容所を置いて楯に出来る、そう思っていた。
「申し上げます!敵の所属が判明しました!ハーム軍です!兵力は依然不明!」
「馬鹿な……奴らはどうやって兵を集めたのだ……どうやって我が軍の背後に……」
激変する状況に、思考が追い付かない。火の手は上がるが、風が無いことが幸いだった。傭兵隊が東門、オーク勢が南から西門に向けて動き出した。しかし、ナーウィン北門を攻めていた傭兵隊とオーク勢は、肉食竜や森の主に襲われて数を大きく減らしている。即応で対処出来たのは各々三〇〇に満たない数であった。
西門付近の粗末な幕舎に押し込まれていた元ニバラク軍の捕虜兵の解放に、あまり時間は掛からなかった。昼間の戦闘でナーウィン守備隊は大きく損耗し、襲ってくる事など無いだろうと踏んでいたのか、見張りは最小限であった。
「生き残りは三五二名、これで全員だな?」
「はい。負傷者の移送も準備出来ました」
「よし、捕虜兵はその刺青を見せたまま、ナーウィンに向かってくれ。キトリヤ兵が紛れていても、その刺青で見分けがつく」
ニックは奪った荷馬車に負傷者を乗せると、捕虜兵を送り出した。ニバラク兵に対する心理効果を狙った刺青が、皮肉にも捕虜兵の身の証を立てる事になった。後は、混乱に乗じて撤収するだけと思ったニックの目の前に、オーク兵が展開していた。数の上ではやや不利、個々の能力でも不利という状況だったが、オーク達は槍を立てて立ち塞がるだけで、攻撃の意図は無かった。
「お前達の中に、第二王子ニックはいるか!?」
鉄兜と胸当て、鎖帷子に身を包んだ、立派な出で立ちのオークが怒声を発する。居並ぶオーク兵の前に繰り出し、鉈のような肉厚の刃を振りかざしながら、ニックを呼んでいた。
「私が、第二王子ニックだ。オークの隊長格とお見受けする」
ニックは兵を手で制すると、オークの前に出た。
「お前がニックか。我が名はブブシャシャ、今この場で、お前に一騎打ちを申し込む」
「……良いだろう。しかし、何故だ。そちらの数で押し切れば、こちらを打ち負かして逃げた捕虜兵も捕まえられよう」
ブブシャシャと名乗ったオークが申し込んできたのは、一騎打ちだった。しかし、ニックの言うように、オーク勢はニック隊に対して有利である。
「ニバラクもキトリヤも、我には興味がない。我は、お前と戦うために来た。弟の仇よ!」
「弟の仇?」
「そうだ、我が弟はモーギナス灯台を占領し、王都に痛撃を与えるという任に就き、お前に敗れた!これで充分だろう!」
ブブシャシャは言い切ると、肉厚の剣を構えて襲い掛かってきた。ニックも応じて剣を構える。重量のある剣をオークの腕力で振るわれたら、想像を絶する破壊力を有する。人間の首など容易く落ちるか、首筋から頭にかけて砕けるかであった。そして、肉体的に人間より強靭なオークが人間の作った防具で身を固めている。厄介という次元を軽く超えていた。
「あの時のオーク勢の指揮官か、ちょうどいい。こちらも、その事で気になっていたからな」
袈裟懸けに振り下ろされた剣を、後ろに跳んで回避する。踏み込んでの反撃はせず、右肩を前にした半身に構え直した。このオークの指揮官は怒号を発し、口調こそ荒々しいものの、決して興奮で我を忘れているわけではない。重量感のある肉厚の刃は、力任せに振るわれたわけではなかった。ブブシャシャは既に次の動きに移れるよう、最小限の動きしかしていなかった。
「彼は私に言ったよ。この戦いこそが、既に報復であると。その真意が知りたい物でな」
「知れた事を。我々オークにとって、人間は百年来の仇敵。我らを地上の隅へ追いやった、人間への報復なのだ!」
ニックの言葉に、ブブシャシャは口調を荒げる。しかし、その言葉とは裏腹に、彼は冷静であった。ニックの構えから、突きか払いを狙っていると踏んだ。誘って打ち下ろすか、深手を覚悟で押し切るか。恐らく、押し切りが半端になると、弾かれて太腿を斬り払われるか、顔に突きを見舞われるだろう。
ニックも同様に、打ち下ろしか決死の突撃と踏んでいた。ロスのように、大柄な体躯と強靭な肉体、豪腕の戦士が決して重くない武器を選ぶ事はある。豊富な筋力で武器を自在に操るためだ。こちらも下手を打てば、突きを見切られて打ち下ろしを脳天に貰うか、突撃を捌き切れずに打ち倒されるだろう。
永遠にも似た数秒間の果て、両者は同時に踏み出した。
「ニック様!」
「隊長!」
双方の兵から声が上がる。しかし、ニックもブブシャシャも、周囲の音は耳に入っていなかった。視覚と触覚を極限まで研ぎ澄ませ、各々が手にする剣と渾然一体になる感覚。先手を打ったニックの突きが捉えたのは、大きく広げられたブブシャシャの掌、刺し貫かれた左手の痛みが動きを鈍らせるよりも早く、右手の刃を打ち下ろす。だが、ニックは剣から手を放しており、刃は再び空を斬った。
「ぐっ……!?」
ニックは腰を落とし、渾身の力でブブシャシャの左脚にタックルを仕掛けた。左手に突き刺さった剣はそのままデッドウェイトになり、重く痺れるような痛みは興奮状態でも伝わった。足がもつれて仰向けに倒れ、ニックが覆い被さる。腰の短剣を引き抜く暇はない。右手の親指を強張らせてブブシャシャの左目を狙う。
その時だった。
「今だ!奴らの指揮官を射殺せ!」
弓弦が鳴り、暗闇から矢が飛び込む。双方の兵士は慌てて守りを固めるも、間に合わなかった者が矢を受けて倒れた。ニックの鎧兜を矢が掠め、耳障りな金属音を奏でる。そのうちの一本が、右腕に突き刺さった。篭手を貫いた矢は骨こそ避けたものの、ニックを無力化させるには充分だった。
「お前……!」
「これでは、私の負けだな」
苦し紛れに口許を歪めたニックを、ブブシャシャはハーム兵の方へ押しやった。左手に刺さった剣を引き抜き、投げ渡す。そして自分の刃を取り直すと、オーク勢と共にキトリヤ軍を睨み付けた。
「邪魔が入った。お前の首は、次に会う時まで預けておく。行け」
「……分かった。左手の傷を治しておくんだな」
「お互い様だ」
一騎打ちを邪魔されたオーク達の怒りが、キトリヤ兵をさらなる混乱に叩き落とす。ニック達はその混乱に乗じ、煙のように姿を消していた。
大陸暦六一五年、天秤の月中旬ー
ポーリャ隊長の末の息子さんが死んだと聞いた時は、嘘だと思ったよ。隊長はそんな素振りを見せなかった。恐らく、見せられなかったんだろうな。
キヤスキー家所属の傭兵の手記『天秤の月二十三日』




