第四十二話『誇りと魂』
大陸暦六一五年、天秤の月中旬-
湖畔の街ナーウィンまで一日半の道程に迫っていたキトリヤ軍は、ニバラク軍による偽兵で幾度となく足止めを受け、進軍に倍の時間を要していた。一度止まった軍勢を再び動かすには、動かし続ける以上の労力が掛かり、馬は疲れ車輪は軋み、ペースを崩され続けて兵のストレスも溜まっていた。
「ライネル様、もうよいでしょう、次に角笛が鳴っても無視しては……」
「いや、敵は我々がそうやって痺れを切らすのを待っているのだ。恐らく、無視した先の地点で伏兵を集め、我々を一網打尽にする腹積もりだ」
「しかし、見つかる敵の旗も木偶人形も、大した数ではありません。兵力はせいぜい一〇〇〇から二〇〇〇、先鋒が待ち伏せされても後続で助け出せます」
軍師の言葉に、ライネルはうつむいて考え込むと、決心したように顔を上げた。
「これ以上、進軍を遅めるわけにもいかん。先鋒の被害を気にしすぎても、軍が崩れてしまう。もう奴らの小細工には構うな!ナーウィンに向けて全力で前進せよ!」
ライネルの号令に、三〇〇〇の兵は奮い立った。今までの足止めで溜まった鬱憤を、まとめて晴らしてやるとばかりに、林立する槍の穂先を空に突き立て、木洩れ日に光らせていた。小細工を繰り返して時間稼ぎしか出来ないという事は、敵に兵力が少ない証拠だ-キトリヤ軍が動き出したその頭上、一際大きな鷲が見下ろしている事に、誰も気付いていなかった。
「シャーリーンからの定時連絡。敵は橙ポイントで速度を上げ、ナーウィンまで半日か」
「よし、それならこの小道を抜ければ、黄色ポイント付近で奴らの後ろに出られる」
偽兵の置かれていた地点は、狩猟ギルドの者しか知らない森の小道による分岐点でもあった。
狩人の森は、各都市間を繋ぐ主要な道の他に、随所で道同士を繋ぐ小道が多数存在する。ニックとコンラッド、ガロンドは各々が兵二〇〇を率いてキトリヤ軍の後方を突く手筈だ。キトリヤ軍が偽兵で足止めされていた隙を突いて回り込み、既に小道の分岐点に差し掛かっていた。
「よし、私はこのまま奴らの糧道と伝令の繋がりを断つ。ニック殿下も無理をなさらぬよう」
「ガロンド殿もお気を付けて」
さらに後方に兵を進めるガロンドと別れ、ニックとコンラッドは四〇〇の兵でキトリヤ軍の後方から忍び寄る事にした。
「ナーウィンの周りにはいくつか川がある。陣を張るなら最も近い川沿いだろう」
「それなら、赤ポイントの辺りだな。ナーウィンまで二刻とない」
「今からだと夕刻……敵が仕掛けるなら明朝か」
「どうする?追い付いた勢いで夜襲でも掛けるか?」
「いや、今日はこちらも少し離れて簡単な陣を張ろう。仕掛けるのはまだ後だ」
ニック達はキトリヤ軍の後方、徒歩で二刻ほどの間合いを保っていた。キトリヤ伯爵領は犬や豚の亜人が少なく、匂いに敏感な兵は多くないと踏んでいるが、警戒されないに越した事はなかった。その日は黄色ポイントから本筋の道に出て、橙ポイントで小道に戻り、狩人向けに拓かれた広場に簡素な陣を張った。
翌朝、ナーウィンの湖面が川魚の鱗にも似た、銀の照り返しを揺らめかせる。そんな静けさは大軍の喚声と地鳴りによってかき消され、佇んでいた水鳥達も我先にと飛び去った。太鼓の音に合わせて兵士達が組み立てた投石器を押す。鉤付きの縄を携えた者、火矢の準備を進める者、捕虜兵に武器を持たせて後ろから監視する者、キトリヤ軍の一斉攻撃は、刻一刻と迫っていた。
「事前の情報だと、残ってる兵は一〇〇〇余りだったか?」
「らしいな。そのうちどれだけが集まってるかは分かんねぇけど」
ゲオルギーとミハイルが防壁を遠目に、決して多いとは言えないニバラク兵を眺めながら言った。アレクサンドルは魔晶石を充填した筒をいくつも準備しており、長期戦に備えている。ナーウィンの防御を一瞥して、ポーリャが鼻を鳴らした。
狩人の森に囲まれた本拠地と言うだけあって、ナーウィンの防御は鉄壁と言うほか無かった。猛獣や魔獣、陸棲竜からの襲撃を受けても耐えられるよう、防壁を囲うように堀が掘られ逆茂木が置かれている。幾重にも張られた防衛線を突破するのは、この兵力でも容易ではなかった。
「さて、どう出るかね……」
ポーリャは夫の形見である鉄槌を握り締め、防壁を見上げた。東門前に到着したキトリヤ軍は、北門にも包囲の輪を広げている。対してニバラク軍は、本来の兵四〇〇に加え、兵に偽装した狩人や住民六〇〇名で対応する。捕虜兵五〇〇は東門前に集められ、監視の兵のすぐ後ろには大隊指揮官が付いた。
「ナーウィンの者共よ、この尖兵の姿が目に入るであろう!この者達は、我らキトリヤ軍に空しい抵抗を続けた末に捕らえられ、なおも反抗的だったため、このような処遇となった!」
上半身を剥かれ、屈辱極まりない文言を彫られた捕虜兵が、武器を持たされて並んでいる。後ろにはキトリヤ兵の監視役、彼らにとっては前も後ろも死しかない。
「降伏せよ!今ならまだ、これほどの仕打ちを受けずに済ませてやるぞ!」
キトリヤ軍の使いが声を張り上げた。防壁の兵士は困惑するしかない。武器を手に敵対しているのであれば討つしかないが、捕虜兵は不本意であるし、ニバラクの民は互いに殺し合う事を嫌う。だからこそ、この作戦は巧妙で効果的である、かのように見えた。
「我々の返事は、言葉よりも速く分かりやすいもので行おう」
弓弦の鳴る音ひとつ、風を切る音ひとつ、そしてキトリヤ軍の使いの眉間に突き立てられる矢がひとつ。
「聞きたまえ、我らニバラクの民は確かに同胞を殺す事をためらう。しかし、同時に名誉を汚される事を死よりも嫌がる。分かるかね?辱しめられた事で、彼らは死んだのだ。今、君達が尖兵と呼んだ者達は、言わば動く屍だ。そして、我らには彼らの屈辱を晴らし、汚名を返上させる義務がある」
静かに言ったのは、先程の矢を射た男、狩猟ギルドの受付でいつも茶と菓子を欠かさない小太りの男だった。ニバラク兵の困惑は鎮まり、どよめきも鳴りを潜めている。
「狩猟ギルド副長、マーティー・ミラッサが命じる。ニバラクの誇りを矢に込めよ、奴らへの憎しみを刃に宿せ。かつての同胞は血と肉を大地に、誇りと魂を天に還せ。殺せ、一人残らず片付けろ!」
マーティーが矢を掲げると、他の兵が応じるように次々と喚声を上げた。恐らく彼の言葉が届いてないであろう北門にも、あるいはナーウィン全域にその高揚感が伝播する。掲げた矢を弓につがえて引き絞る。鋭い視線と共に射抜かれたのは、捕虜兵の一人だった。その勢いに乗じるように、防壁の各所から矢が放たれる。楯を構えるのが遅れた者が、その身を矢尻に食い荒らされた。
「何て奴らだ……!火矢と投石で障害物を取り除け!」
ナーウィンの防壁は修復のしやすさに重点が置かれているため、木造である。猛獣の突進ならば逆茂木で勢いを殺すので耐えられるが、直接飛んでくる投石には長くは耐えられない。キトリヤ軍の投石器は五基、東門側に全て集められていた。号令と共にレバーが倒され、次々と巨石が放り込まれる。人間の頭ほどの大きさの石が防壁に叩きつけられ、木片を飛び散らせながら食い込んだ。
「怯むな!奴らの石には限りがある!そう当たるものではない!」
ニバラク兵と行動を共にするナーウィンの民が、投石の威力に怯んだところで、マーティーの檄が飛ぶ。直後、二発目の投石が防壁上に飛来、今度は近くにいた弓兵の一人が頭を割られた。鉄兜がひしゃげて転がり、べちゃりとした赤いものが滴っている。
状況は不利、だが、引く事の許されない戦いは、まだ始まったばかり-
大陸暦六一五年、天秤の月中旬ー
キトリヤ軍による侵攻があったという話を聞いて、弓の調練に参加したが、やはり人型の的というのは気味が悪い。しかし、守るべきものの為ならば、この心を鬼にする必要もあろう。
ナーウィン狩猟ギルド副長マーティー・ミラッサの手記『天秤の月二十一日』




