第二十三話『それぞれの朝』
大陸暦六一五年、王者の月下旬―
ビルカ山岳中枢都市ホツキネは、一日半に渡る戦仕度を終え、束の間の休息の最中にあった。投擲用の石が所々に積まれた城壁にて、東の空に昇り始めた太陽を遠目に、ニックは今この状況が、嵐の前の静けさに過ぎない事を理解していた。
「兄上様、ここにいらしたのですね」
「王子様、恐らくは今日にでも敵は来るんだ。しっかり休んだかい?」
城壁に現れたのはミリアムとエリスだった。一度は敵対した二人だったが、どういうわけか馬が合うようで、他愛ない話題で盛り上がっている所を何度か目にしていた。
「正直なところ、あまり眠れる状況ではなかったな」
目頭を揉んだニックの目許には、うっすらと隈が暗い色を成している。恐らく、徹夜で戦に備えていたのだろう。守備兵やホツキネの作業者達は交代で休憩を取りながら準備を進めていたが、ニックは休んでいなかった。気分的に休めるような状態では無かったかもしれない。それだけ、迫る敵の正体が気になっているのだ。
「……姫様、あれを」
「そうですわね、分かりましたわ」
エリスの目配せにミリアムが応じる。ニックが問いただそうとした瞬間、ミリアムの腕輪の魔晶石が光を放った。ニックの視界が歪み、耳に届く音は不規則な反響を交えている。意識が遠のき、片膝をついたところで視界が暗転した。
「さて、兄上様を休ませないと……エリス様、寝床の確保をお願いしますわ」
「分かったよ、しかし、あたしの教えた睡魔の術式を上手く使ってるねぇ」
眠りに落ちたニックを肩に担いだエリスに、ミリアムが微笑みを返す。ベッドに寝かせられたニックを見て、ロスとコリンズは呆れたような表情を浮かべた。すまないな、とロスが視線を送ると、気にしないで、という返事がエリスからのウインクで届けられた。
「ところで、ギネッシーオを陥落させたという敵は、いつ頃来るのでしょうか。昨日の夕刻では、今日の昼前には到着しそうな距離と報告されていましたが……」
「その報告、今ひとつアテにならないんだよねぇ。距離はともかく、敵の数が不明ときた。少なくとも五〇〇と見られている以外、情報がないんだよ」
コリンズの疑問に、エリスが応じた。彼我の距離を推し測れるほどの観測が出来ていながら、その敵の規模が予測出来ないという不自然さが、疑問として横たわっているのだ。
「妙なのです、敵の編成が」
そう言って割って入ってきたのはガイラーだった。
「まず、敵の数が思ったより少ない。多くて三五〇といった程度で、ギネッシーオを落とした際に失ったという感じでもありません。消耗しているならば、兵力の補充などを行う手間と時間が掛かりますから。そして、三五〇の兵で進軍している割には、輜重の数が多いのです。どう見ても五、六〇〇の兵を動かす量の物資が積める数です」
「長丁場の戦に備えて、兵糧や矢を多めに持って出た、という事ではありませんの?」
「いや、三五〇程度の兵力で長丁場の行軍というのも考えにくい。敵が実は別働隊で、他所に本隊がいるというなら分かるけどね」
ガイラーの説明に疑問が生じたミリアムに、エリスが切り返す。鷹亜人の飛行兵による偵察によると、その三五〇の兵は指揮官の装いや旗の数などから別働隊ではなく、本隊である可能性が高いとの事だった。
「どちらにせよ、敵の到着までニック様には休んで頂こう。肝心な時に大将が動けないのでは話にならんからな」
ロスはそう言うと、泥のように眠るニックを一瞥すると、部屋を後にして警備に戻った。程なくして、朝食を知らせる声が響き渡る。日は既に昇っていたようだった。起きるのが早かったためか、エリスもコリンズもミリアムも、揃って腹の虫が鳴いていた。
ホツキネを始めビルカ山岳の各都市は鉱山が多い事もあって、あまり食事で期待はしない方がよいというのが、ミリアム達の第一印象であった。だが、ジョクトーから街道を西に行けば、貿易港としても栄えている港湾都市リーバから魚介類や塩が届き、南からは王都ボートミールお呼び近隣の農村地帯で作られた加工肉や野菜が回ってくる。王族が来ている事や戦の前で英気を養う為という理由もあるが、食堂に並ぶ料理は王都と大して変わらないものだった。
「姫様、朝から腸詰肉のスープとは、気合入ってるね」
「戦の前ですもの、力を付けないといけませんわ。それに、この塩加減と香草の香り。城の料理人の作るものにも引けを取りませんわ」
変わらぬ口調で魚の塩焼きを頬張るエリス、どこか優雅ささえ漂わせるミリアムを他所に、コリンズはバター香るロールパンを少しずつ摘まんでいた。緊張から食が進まない。その隣ではロスが怪鳥の卵で作られた、黄身だけでも人間の拳ほどありそうな目玉焼きを、野菜サラダと甘辛く煮た豚肉と合わせてかじり付いていた。
「後で兄上様にも食べて頂けるよう、冷えても大丈夫な物を取って置きますわ」
「それでしたらミリアム様、この黒麦パンと干し肉などいかがでしょう。それと、小ぶりなリンゴを添えておけば、戦の前でも食べられるかと思います」
「それは良い組み合わせですわ。兄上様はこういう所で食べる干し肉と赤ブドウ酒は格別だ、なんて通ぶってますわ。お酒に弱いのに、変なところで見栄を張りたがるのです」
コリンズがバスケットに入れた食べ物を見て、ミリアムが声を弾ませる。本人がこの場にいないのをいい事に、ニックの痛い所を突いたりもした。王位継承者として立ち振る舞う普段のニックとは違う印象を受け、コリンズもエリスも興味津々に聞き入っている。ロスと、向かいに座ったキャシックは、モーギナス灯台での戦勝パーティーでニックが晒した醜態を思い出し、苦笑いするしかなかった。
同時刻、ホツキネに向けて進軍中の三五〇の兵も、朝食を済ませて野営を解き、動き出した。兵力と釣り合わない数の輜重には、厳重注意の但し書きが添えられた薬品用の瓶や壷が積み込まれている。
「父上が決めた事なんだ。僕達もついて行くと決めたんだ。だから……」
自分は正しい、間違っていない――
幾度となく自分への弁明を繰り返したのは、ベクォン家の長男ハンスだった。
「お兄様、どうされました?」
不意に投げかけられた声に、ハンスは心臓が飛び上がるほど驚き、ゆっくりと振り向く。
「そんな、人をお化けを見るような目つきで見ないで下さい……」
オリビアだった。だが、今の彼女を見るハンスの目が、まるで幽鬼を怖れるような色を帯びるのは、わけない事だった。
透き通るような赤紫色の波打つ長髪はその美しさを無くし、くすんだ血のような赤黒い細枝のように変わり果て、うっすらと紅を帯びた絹のようにきめ細かく柔らかな肌は、生気が欠け凍原のごとく荒れている。辛うじて彼女の魅力が残されている所と言えば、変わらぬ温和な表情と器量の良い顔立ち、十四歳という年齢に似合わず育った身体の稜線であった。
「お兄様、私も、自分で決めた事なのです。だから、悲しまないで下さい」
全ては父のために、向き合う兄妹の交わした視線は、悲壮なまでの決意に満ち満ちていた。
大陸暦六一五年 王者の月下旬
防壁で朝焼けを見ていたはずが、寝床にいた。エリスのニヤつきと、コリンズの申し訳なさそうな顔が忘れられない。覚えてろミリアム。
―第二王子ニックの手記『王者の月二七日』より




