第十五話『山を隔てて』
大陸暦六一五年、王者の月満月の日―
ボートミール城の自室の窓から空を仰ぎ見ては、流れる雲と飛び交う鳥が織り成す穏やかな景色に、ミリアムは何度目か分からない溜息を吐き出した。ジリボンでの出来事から十日、未だにニックの行方は分かっていない。テーヴァが一緒だから、何かあれば連絡を寄越してくると思ったのだが、それもない。青々とした空とは対照的に、彼女の心は深く沈んでいた。その時、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どなたですの?」
「私です、キャシックです」
開けた扉の先には、簡素な胸当て程度の防具しか身に着けていない、ほとんど平服のキャシックの姿があった。
「気晴らしに、遠乗りでもいかがかな、と思いまして」
「そう、ちょうど退屈していたところですわ。着替えるので、少し待ってて下さる?」
一度扉を閉めて十分と満たない時間の末、ミリアムは乗馬の姿になって現れた。いつものふわりとしたスカートを脱ぎ、動きやすさを重視した乗馬パンツに履き替えている。ハーム王国の王族や貴族にとって、乗馬は男女問わず必須の技能とされている。着飾ったドレスで優雅に嗜む、というモノゲア帝国貴族の風潮よりも、文武両道を重んじるカッサーナ皇国武家の影響が強い。
「さぁ、参りましょう!」
「そういう所は、マルシア様やニック様にそっくりですな」
「兄上様に何かあった時は、私が王位継承権を頂くくらいの気でいませんと」
強気な笑顔を見せたミリアムに、キャシックは明るい笑みで返した。お互い、これが作り笑いである事は分かっている。本当はニックの生還を待ち望んでいるのだ。護衛にキャシック指揮下の兵を五騎ほど連れ、城の北門からビルカ山岳方面に繰り出した。
季節が秋に傾いているとはいえ、まだ暑さの残る草原の緑には、青々とした瑞々しさを湛えている。駈歩で受ける風は心地よく、心の淀みやわだかまりを吹き飛ばしてくれそうな気にさえなる。ミリアムの馬術の腕はニックを凌ぎ、キャシックの騎兵隊にも引けを取らない。ビルカ山岳方面に続く街道沿いに丘を二つほど駆け抜け、ボートミール城が親指ほどの高さに見えるまで遠くに来たところで、一行は馬を止めた。
「ミリアム様、ご気分はいかがですか?」
「えぇ、とても良い気持ちですわ。ありがとう、キャシック将軍」
馬首を並べ、晴れやかな表情で言葉を交わす二人ではあるが、足が止まり風が止むと、ニックがいないという現実が不安と重なってくる。間の悪い沈黙が、事情など露知らずの鳥のさえずりによって、より一層引き立てられる。そんな中、一人の騎兵が空を指差して声を上げた。
「将軍、ビルカ山岳方面より伝書竜が飛んできます!」
「何、あれは……ニック様の!」
尾根を飛び越え、晩夏の陽射しを受けながら降りてきた一頭の伝書竜が、キャシックとミリアムの前に降り立った。ニックの伝書竜、テーヴァだった。首から下げられた筒を受け取るように顔を寄せてくる。ミリアムは筒を開けて手紙を取り出すと、恐る恐る開いてみた。
父上、母上、姉上、ミリアム、グレンへ
僕はジリボンを抜け出し、今はビルカ山岳の鉱山都市ホツキネにいます。
脱出に際し、サミサ商会とニムネク商業の協力を得ました。彼らは無実です。
こちらで少々やる事があるため、城へ戻るのはもう少し先になります。
ニック
追伸:テーキス地方への装備品横流しに関して、キトリヤ伯爵領を経由している可能性があります。
「兄上様の字ですわ……!」
「ニック様は無事だったのか。しかし、ビルカ山岳で何を……?」
「いいではありませんか、とにかく今は、この事を父上様に報告しなければ!」
「そうですね、引き上げるぞ!」
テーヴァに手紙を返すと、キャシックの指揮の下、一行は大急ぎで城へと引き返した。
あの山の向こうに―
ミリアムは馬首を返す間際、目の前にそびえるビルカ山岳を見上げて呟いた。
ハーム王国西部一帯を占めるビルカ山岳は、ニック達の滞在しているホツキネを中心に幾つかの鉱山都市が存在する、鉱物資源の一大産地である。主な労働力は犬や豚、山羊亜人にゴブリンで、種族に関わらず能力と歩合によって賃金が決まっているため、大きな不満もない。ニックとコリンズはホツキネの役場付近に建てられた、守備隊の本部にいた。
「指折り数えて、そろそろテーヴァが城に着いた頃かな」
「恐らくは、でしょうね。ところでニック様、彼女の件……本気ですか?」
ニックとテーブルを挟んで向き合っていたコリンズが、身を乗り出しては目を細めて尋ねた。この判断には、ロス達近衛兵も良い顔はしなかったし、守備隊も警戒しきりだった。
「本気さ。彼女を敵に回すのは危ない。危険を減らす意味でも、味方に付けておこうと思ってね」
「でも、ジリボン警備兵や傭兵を率いての近衛兵の殺傷については、弁解の余地ないですよ?」
「そこは……先に彼女と契約していたベクォン家の出した指示が、って事にしておこう」
ニックはコリンズに飄々とした態度で答えた。
サミサ商会の手の者に助けられて以降、二日後にはニムネク商業のキャラバンがビルカ山岳方面に荷を運ぶため、手を回してもらって荷に紛れて運んでもらったのだが、ベクォン家の一手は本当に早かった。あの事件の夜が明けて、昼過ぎには街中に警備兵が配置され、ニックは『第二王子ニックを騙る盗賊』として手配されていたのだった。
「いやぁ、流石はこの国トップレベルの大貴族だ。王子様だけじゃなく、あたしまで手配するとはね」
「いくら何でも、あれは暴れ過ぎだ」
ニックとコリンズが話していた『彼女』こと、女傭兵エリスが口を挟んできた。
一応、契約金は全額ベクォン家の屋敷に戻してきたのだが、やはり仕事を達成出来なかった事は大きなマイナスだったらしい。成功していれば、偽者として処理したニックに全て被せる手筈だった警備兵への殺傷に関する罪が、そのまま彼女に被せられていたのだ。長居は無用とジリボンを脱した彼女は、ニック達の後をつけてビルカ山岳まで至り、傭兵としての契約を持ちかけたのだった。
「ところで王子様、契約金の担保として渡してきた、この短剣なんだけど……」
「どうした、換金した際の価値が足りてなかったか?」
着の身着のままでベクォン家の屋敷を脱出したニックは、エリスとの契約に際して、金目の物をほとんど持っていなかった。唯一の宝物といえば、モーギナス灯台奪還の功績を称えられて国王より授かった、装飾の施された短剣だった。彼はそれを担保にエリスと契約を結んだのである。
「ちょっと鑑定してもらったんだけど、足りないどころか多過ぎるくらいだったわ。向こう二、三年は続けて契約出来るくらい」
「そうか。では、途中の契約変更などを含めても、その短剣一本で十分か」
「むしろ、王子様がお望みなら、夜のお相手も含めてサービスしてもお釣りが来るわよ?」
ニックの言葉に、エリスは視線に色みを帯びて返した。ほぼ同時に、コリンズとロスがニックを守るように立ち塞がった。
大陸暦六一五年 王者の月満月の日
あの女傭兵から、ニック様をお守りせねばなるまい。特に貞操、ハーム王家の未来に禍根を残さぬためにも、王位継承者の私生児などあってはならないのだ。
―近衛兵エドワード・ロスの手記『王者の月十五日』より




