第十四話『王妃の毒』
大陸暦六一五年、王者の月上旬―
王都ボートミールの港に、一隻の貨物船が戻って来た。事前に連絡を受けていた港湾管理官や小隊規模の近衛兵が船の周囲を封鎖し、一般人の立ち入りを制限する。渡し板が架けられて乗員が降りてくる中、一際目を引く存在にどよめきが起こった。平時とは全く違う、疲れ切った表情の第三王女ミリアムが乗員に連れられて来たからだ。貨物船の船長は近衛兵の小隊長に一礼すると、ミリアムを引き渡した。
「ご苦労だった。して……近衛兵五名と指揮官のコリンズ・マルキヤ補佐官はどうした?」
「船まで辿り着いたのは、ミリアム様だけでした。厳密には、ニック様の伝書竜が連れてきたのです。そして、船を出せという合図を託されていたようです」
「そうか、分かった。此度は急な要請であるにも関わらず、よく働いてくれた。然る後、陛下より恩賞と補償が賜られるであろう」
そう告げると、小隊長はミリアムを馬車に乗せ、近衛兵を率いて港を後にした。
「陛下、ミリアム様がお戻りになりました」
近衛兵からの報告を受けたハロルド三世は、思わず玉座から立ち上がり、驚きと歓喜に満ちた表情を隠せなかった。刻まれた顔の皺をより深くし、大臣や家臣の前であるにも関わらず、涙をこらえる事が出来なかった。
「陛下、落ち着いて下さい。ところで、ニック様はどうしたのだ?」
「はっ、ミリアム様を先に送ったものの、ニック様の伝書竜よりすぐ出航するよう合図を出されたそうです」
「なんと……ニック様はミリアム様だけでもと……」
近衛兵の返事に、国王とニバラク大臣は喜びも束の間、再び不安感の渦に放り込まれた。
しばらくして、ミリアムが王の間に入って来た。船旅の帰りという事もあって、軽く湯浴みして化粧を施し、身だしなみを整えたためか、聞いていたほどの憔悴は感じられなかった。赤い絨毯をしっかりとした足取りで玉座まで歩み寄る。
「私だけ帰りついてしまいました。兄上様は……」
「急くでない、ゆっくり話せ」
ミリアムは言いたい事、言わなければならない事が喉を突いて溢れ出そうになり、思わず早口になった。心拍数も跳ね上がり、洗い流したばかりの汗が体の至る所から滲んでくる。幾度となく呼吸を整え、気持ちを落ち着けてから、あの夜に起きた事の詳細を話した。
ベクォン家の屋敷で襲われた事、ハンスとオリビアからの追跡、暗殺者と刃を交えるニックを馬で助け出した事、広場での戦闘、ウォーレンに担がれ連れられ港まで逃れた事、そして、ウォーレンが体を焼かれながらも自分を助けた事。ひとつひとつの出来事が今も鮮明に思い出せるほど焼き付いている。
「兄上様は、私を逃がすために、ベクォン家の手の者を引き付けたのですわ。コリンズ様も、ウォーレン様も、近衛兵の皆様も、私一人を逃がすために……」
そこから先は、もう嗚咽混じりで言葉として聞き取れなくなっていた。ハロルド三世は手で顔を覆って泣き出したミリアムに近寄り、静かに包み込むように抱きしめた。その様子を柱の影で聞いていた人影がひとつ消えていた事に、気付く者はいなかった。
「ニックがジリボンでベクォン家の手の者に襲われ、生死不明……だ、そうよ」
「それを私にわざわざ伝えに来るとは、どういった意味合いですかな?」
「どうも何も、貴方が教育係を務めたニックの現状を伝えただけよ。キャシック将軍」
「そうですか、ありがとうございます……王妃様」
その晩、兵舎の自室で考え事をしていたキャシックを訪ねたのは、王妃サラだった。
グレンを寝かしつけ、国王の元へは寄らず、彼が言うとおり『わざわざ』ニックの状況を伝えに来たのだ。キャシックもレッターやパッテンと共に、ニックとミリアムの身に起きた事や行方不明の件は聞かされていた。それにも関わらず、生死不明という言い回しをしたサラの態度に、キャシックは一抹の苛立ちを覚えたのだった。
「……くそっ、グレン様を擁立するために、ニック様に亡き者になってもらいたいという意味か……!」
サラが立ち去った後、キャシックはその苛立ちを隠す事なく吐き捨てた。だが、それを国王に言うわけにはいかない。ハロルド三世はサラを寵愛し、彼女との間に生まれたグレンを溺愛している。迂闊な事は言えなかった。まだ起きているだろうレッターやパッテンに愚痴の一つでも言いに行こうかと思ったが、どこにサラの息が掛かった者が潜んでいるか分からない以上、動き回るのは下策と判断した、その矢先の事だった。
「キャシック、起きてるか!?俺様だ、パッテンだ!」
「声が大きいぞパッテン。キャシック、私だ、レッターだ。起きてるなら開けてくれ」
キャシックは黙って扉を開けた。仮に開ける気がなくとも、このままではパッテンに破られると思ったからだった。部屋の灯りに照らされた二人の顔は、憤懣やるかたないとしか言いようがない。特にパッテンの頭は湯の湧いたヤカンのようであった。レッターもそれほどではないが、眉間の皺がいつもより明らかに深く刻まれている。
「ニック様の行方不明に、王妃様は何故あんなに平然としていられるのだ!陛下もアリシア様もミリアム様も、本気で心配なさっているというのに、だ!」
「そうだな。陛下がグレン様を可愛がっておられると知っているゆえ、後々の王位継承者としてのニック様が疎ましいのだろう」
「疎ましいだと!?今の我が国において、ニック様ほどの次期国王の器がおられるか!」
「とにかく、落ち着け。王妃様の息の掛かった者に聞かれたら厄介だ」
いきり立ってまくし立てるパッテンを、キャシックが嗜める。パッテンの禿げ上がった頭に走る血管が興奮のあまり浮かび上がり、いつ切れてもおかしくないと言わんばかりに張り詰めている。レッターも無言で頷くだけで、彼の半ば暴言に近い発言を諫めようともしない。キャシックは溜息ひとつを吐き出すと、戸棚からグラスを三個、そして秘蔵にしていたワインを取り出した。
「まぁ、とりあえず、飲むか。話はそれからゆっくりと始めよう」
不気味なほど落ち着いた、しかし力強い声でパッテンを制したキャシックは、テーブルに置いたワイン越しに二人を見据えた。その目は血走る事も怒りに燃える事もなく、静かに強い光を放っていた。
「宮廷魔術師セオドア・ベクォン、大陸暦五九四年に発狂を伴う病にて没。第一王妃ミランダ・ハーム、大陸暦五九六年に動揺の病にて没……か」
人気の無い真夜中の地下書庫、頼りない灯火だけを頼りに資料を読み耽るのは、王妃サラだった。
「大陸暦六〇〇年、ビルカ山岳の魔晶石鉱山にて事故、死者多数……」
ベクォン家の者が王家に牙を剥いた事は、彼女にとっても予想外だった。オーク勢によるテーキス地方の暴動やモーギナス灯台の占拠事件に関して裏で手を引いていたとしても、表立って事を起こすには衝動的だと思ったからである。
「ハーム王家とベクォン公爵家の間に何かがあった、と見る方が正しいわね……」
資料を閉じてしばしの間、考え込む。グレンを王位に就ける為に、最も必要な事はニックの排除であり、その為には二つの選択肢がある。一つはグレンの評価を高める事、これは文官や聖職者との交流や根回しを常日頃行っている。もう一つは、国王ハロルド三世の弱みを突き、ニックの王位継承権を取り上げさせる事である。
「陛下の知恵袋で相談役といえば……ニバラク大臣ね」
サラの瞳に怜悧な光が宿る。王妃の毒が一層深みを増した瞬間だった。
大陸暦六一五年 王者の月上旬
ニックが行方不明との報告を受けてから、日に日に城内の空気が不穏なものになってゆく。そして、私への視線も同様だ。叔父様は何故、王家に牙をむいたのか、恐らく母上の事だろうとは思う……
―第一王女アリシアの日誌『王者の月十三日』より




