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第九話『月夜』

 大陸暦六一五年、王者の月初旬―

 商業都市ジリボンの賑わいは相変わらずで、ハーム王国を巡業している見世物小屋がニバラク公爵領から南下して来た事もあって、一際ごった返しの大盛況となっていた。

 ニック達は安全を考慮して、ベクォン家の馬車を使って移動していたのだが、あれから刺すような視線を感じる事はなかった。濁流にも似た人の往来には、刺客を忍ばせる事さえ難しいという事だろうか、ニックはそんな事を考えながら、向かいの席で先ほどの見世物小屋での感想に話の花を咲かせるミリアムとオリビアに目をやった。


「あんな生き物がこの世に存在しているなんて、考えも出来ませんわ!」

「私も話に聞いた程度だったので、本物を見たのはは初めてです!」


 興奮する二人が話しているのは、ギムココ諸島から連れてこられた生き物の感想だった。見た目はトカゲに似ているが、大蛇のような目、竜のような顎、岩肌のような鱗を持ちながら、主に水辺に生息しているという。全長が馬ほどあり、大きく開けた時の口は人間の頭さえ入ってしまうほどの大きさ、あんな生き物が水辺に沢山いる光景など、想像したくもなかった。


「兄上様は、何に一番驚きましたの?」

「……そうだな、キメラの火吹き芸かな」


 ニックの返事に、ミリアムとオリビアからも納得の声が上がる。獅子に大角鹿の頭と竜の翼、尾から毒蛇を生やしたキメラが火を吹き、咆え猛る様は多くの観客を魅了した。


「お父様に話す事がたくさんありますね、今日は楽しかったです」

「今日のお夕飯は何になるかしら。ベクォン家のお屋敷の料理人の腕前は、ボートミール城の者に勝るとも劣りませんわ!」

「ミリアム様にそう言って貰えて、光栄です。そうそう、お兄様がまた馬術の腕を競いたいとの事ですよ」

「受けて立ちますわ!ハンス様ほどの腕前の方とは、中々出会えませんもの!」


 オリビアが手を合わせて微笑むと、それに合わせて赤紫色の波打つ前髪が静かに揺れる。ミリアムと同い年とは思えないほど大人びた表情に、ニックはどことなく居心地の悪さを覚えた。オリビアの兄ハンスは馬術に精通しており、この日も貴族相手の社交的な付き合いに呼ばれていた。それだけに、腕を競える相手に不足しているらしい。

 色んな人がいるものだ、ニックはそんな事を考えながら馬車に揺られ、郊外の丘に建つベクォン家の屋敷へ向かう。着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。



「はぁ、今日も美味しいお夕飯でしたわ……帰ったら父上様や姉上様になんてお話しましょう」

「グレンや母上にも、いい土産話になりそうだな」


 客間のソファに身を沈めながら感想を述べるミリアムに、ニックはそれとなく付け加える。ベクォン家の屋敷に招かれて十日ほど。そろそろ帰り支度をする頃ではないかと思った矢先、ニックの首筋に再びあの感覚が襲ってきた。ジリボンに来た時と同じ、刺すような殺気じみた感覚―


「兄上様、どうされました?」

「いや……なんでもない。それよりミリアム、ここには随分と世話になったんだ。そろそろ城に帰る支度もしようか」

「そうですわね。本当、オリビアやベクォン家の皆様には感謝しきりですわ」


 ソファから立ち上がると、ミリアムはニックと共に三階へと上がり、各々が寝泊りしている部屋へと戻った。客間の窓の外、怪しく光る黄金色の視線の残滓は、瞬く間に塵のごとく消え去っていた。



 それから数刻後、夜半近くなったボートミール城内、国王ハロルド三世の居室には二人分の影があった。ひとつは部屋の主である国王の、もうひとつはここを訪れていた王妃サラのものである。部屋にうっすらと漂う淫靡な残り香が、先ほどまでの二人の行いをそれとなく物語っている。腰巻き一丁で椅子に腰掛け、手酌酒をテーブルに置いたハロルド三世の背中に、胸元に掴み上げたシーツで体を隠しているだけのサラが話しかけた。


「ねぇ、私やグレンの事、どう思ってるの?」

「どうしたサラ、藪から棒に」

「いえ、貴方から見た私は……過去の王妃と比べて、どう映っているのかしら、と……」

「何を言うんだ。二人の后はもういない。今はお前が私の妻だ。そして、グレンもまた、大切な息子だ」


 国王は手に取るグラスの液面を揺らし、振り向きもせずに答える。サラの目には、そのグラスの中身は迷いであるように見えた。本人は公言しないが、グレンに対する愛情は自分以上に深く、それは溺愛と言ってもいい。だが、王位継承者としての順位が最も高いのはニックであり、現状グレンはそのスペアに過ぎない。


「サラよ、お前の言いたい事は分かる。だが、ニックの地位は磐石なのだ。ニバラク大臣の孫と学友であり、キャシック将軍やマルキヤ将軍とも深い繋がりがある。何より、モーギナス灯台解放戦で武功まで立てている。時期国王として申し分ない輝きに満ちているのだ」


 ハロルド三世の言葉に、サラは唇を噛む。確かにニックは王位継承者としての地位を不動のものにしている。何とかして、この状況を打破しなければ―

 少し膨らみを帯びた上弦の三日月が、雲に隠れてはその輝きを失っていた。



 同時刻、ベクォン家の屋敷にて、裏口の扉を努めて静かに開け、忍び足で出てくる人影があった。裏庭に設けられたトイレに足を運ぶミリアムだった。城ならば中に作られているものだが、流石に屋敷となれば外にあっても仕方がない。最初は面食らったが、十日も寝泊りすれば慣れたものであった。


「……ふぅ、さて、戻りましょうか……あら?」


 こんな時間に、人の声が聞こえる。トイレの扉の小さな覗き窓から外の様子を伺うも、声の主は見えそうもない。微かな風にそよぐ草や枝葉の擦れる音で、はっきりと聞き取る事は出来なかったが「抜かるな」「任せて」「気を付けろ」といった会話をしていた事は見当がついた。


「もしかして、兄上様が……!?」


 トイレから出て息を殺してひと走り、裏口に飛び込むように戻ると、数回の深呼吸で息を整え、階段を一気に駆け上がった。かなりの足音を立てたかもしれなかったが、ニックの事が気がかりで、それどころではない。三階の廊下に出たところで、背後から忍び寄った何者かに口を塞がれた。


「落ち着けミリアム、僕だ。この屋敷を出る」

「で、でも、下の階段から、もう足音が、上って、上って来てますわ」

「落ち着くんだ。僕の泊まってる部屋の窓から出よう。この腕輪を着けて」


 ニックがミリアムの右手首に付けた腕輪は、魔晶石を入れる筒が備わっており、簡易な術式なら起動する事が出来るものだった。万一に備え、アリシアから持たされていたものだった。ニックは国王から賜った短剣だけを持っている。これも、柄が空洞で、それ自体が魔晶石の筒の役割を果たしていた。


「他の荷物は全て置いていく。窓から飛び降りるから、お前は地面にぶつかる直前で突風の術式を使ってくれ。さぁ、早く」


 ミリアムは小刻みにうなずくと、ニックと共に部屋のバルコニーまで出た。カーテンは閉めてあるのですぐには気付かれない。月は雲に隠れている。ニックとミリアム、それぞれが寝泊りしていたベッドに刃が突き立てられる。羽毛が舞い散り、暗殺失敗を悟る。にわかに慌しくなり、窓が荒々しく開け放たれた。

 二人の姿は、バルコニーから影も形もなくなっていた。

大陸暦六一五年 王者の月初旬

夫を、息子を、娘を止められない自分の弱さが、この世で一番憎い。

   ―ベクォン夫人ヒルダの手記『王者の月五日』より

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