第96話 再びのアスタリカ
ヴァルドを発ち、西へ。
アスタリカへの道は、かつて火の神を救いに向かった、あの旅路だった。
けれど今度は、ザイードの先導もない、わたくしたちだけの旅。
それでも、迷いはなかった。
あの国には、確かな友がいる。
国境に近づくと、見覚えのある紅蓮の山々が、遠くに見えた。
けれど、その姿は、以前と違っていた。
「……山が、穏やかだ」
アルヴィスが、目を細めた。
かつて火の神の暴走で荒れ狂っていた、紅蓮の山々。
それが今は、ゆるやかに白い湯気をたなびかせている。
火の恵みを取り戻した、証だった。
わたくしたちが救った、火の神。
その加護が、確かに、この地に根づいている。
◇
アスタリカの、王都へ。
門の兵士に名を告げると、すぐに王宮へと通された。
かつての、警戒に満ちた敵国の対応とは、まるで違う。
ヴァルドの辺境伯夫人は、今や、アスタリカにとって、恩人なのだ。
謁見の間で、待っていたのは、若き王レオハルトだった。
「——セレスティア殿! よくぞ、参られた!」
玉座から立ち上がり、駆け寄ってきた
かつて、軍の強硬派に追い詰められ、孤立していた青年王。
その顔には、もう、あの焦りの影はない。
自信に満ちた、立派な王の顔だった。
「お久しぶりです、レオハルト陛下」礼を取った。
「ご立派になられて。——国は、落ち着かれたようですね」
◇
「すべて、そなたのおかげだ」
レオハルトは、感慨深げに言った。
「火の神を鎮め、強硬派の企みを暴いてくれた。あの後、余は、軍を掌握し直し、国を立て直すことができた。——この恩は、生涯忘れぬ」
そのとき。
謁見の間に、大きな足音が響いた。
「おお! 本当に、来ていたのか!」
豪快な声とともに現れたのは、屈強な体躯の将軍だった。
かつて、わたくしたちに敵意を剥き出しにしていた、対ヴァルド強硬派の筆頭——ガルム将軍。
けれど、その顔は、満面の笑みだった。
「久しいな、料理の御仁! いやはや、あんたの作る飯が忘れられんでなあ。——時々、無性に、食いたくなるんだ!」
かつて、わたくしを「敵国の女」と罵った、その人が、今では、こうして旧友のように笑いかけてくる。
料理が変えた、関係だった。
◇
「実は——お二人に、お願いがあって参りました」
わたくしは、本題を切り出した。
王国の宰相が、滅びを望む者たちと結託していること。
出頭命令という罠を仕掛けてきたこと。
その背後に、より大きな闇が潜んでいること。
話を聞いたレオハルトの顔が、険しくなった。
「……許せぬ話だ」
彼は、低く言った。
「神の声を聞く者を利用し、世界を滅ぼそうとは。——それは、もはや、一国の問題ではない。世界すべての、危機だ」
「その通りです」わたくしは頷いた。
「だからこそ、力を合わせたいのです。——国を、越えて」
ガルムが、ぐっと拳を握った。
「言うまでもない! あんたには、大恩がある。——その敵は、俺たちの敵だ。なあ、陛下!」
「ああ」レオハルトが、力強く頷いた。
「アスタリカは、ヴァルドとともに在る。——必要なら、兵も出そう。我が国の威信に、かけて」
◇
心強い味方を、得た。
かつて、敵国だった、アスタリカ。
それが今では、最も頼れる盟友になっている。
すべては、火の神を救った、あの戦い。
そして、ガルムの心を溶かした、ひと皿の料理から、始まった。
料理が繋いだ縁は、国境を越えた。
損得や過去の遺恨さえ、越えて。
——人と人を結びつける。
それは、神々を繋ぎ直すことと、同じくらい大切な、わたくしの戦いだった。
「ありがとうございます。——百人の味方を得た思いです」深く、頭を下げた。
レオハルトが、微笑んだ。
「礼には及ばぬ。——だが、ひとつだけ、条件がある」
「条件?」
「また、あの絶品の料理を、振る舞ってくれ。——ガルムが、うるさくてな」
謁見の間に、笑い声が響いた。
◇
その夜。
わたくしは、約束どおり、腕をふるった。
アスタリカの、燃えるような赤唐辛子と、香り高い種子の香辛料を、たっぷりの油脂で、じっくり炒める。
ぱちぱちと爆ぜる音とともに、むせ返るほど鮮烈な香りが立ちのぼる。
そこへ、ヴァルド特産の滋味深い根菜と、よく肥えた肉を合わせ、ことことと煮込んでいく。
強烈な辛味の奥から、やがて、肉の脂の甘みと、根菜の素朴なコクが、とろりと溶け出してくる。
——アスタリカの火と、ヴァルドの大地。
二つの国の恵みが、一つの鍋の中で溶け合い、どちらか一方では決して出せない、深い味わいを生み出していた。
「これだ……! この味だ!」
ひと口食べたガルムが、感極まったように唸った。
屈強な将軍が、子どものように目を輝かせている。
「初めて、あんたの飯を食ったときの衝撃を、忘れられん。敵だ味方だと、いきり立っていた俺が……ひと口で骨抜きにされちまった」
「あのときは、危うく、斬られるかと思いました」わたくしは、くすりと笑った。
「はっはっは! 違いない!」ガルムが、豪快に笑う。
「だが、おかげで、俺は、大事なことに気づけた。——腹が満たされ、心がほどける。その尊さに、な。剣だけが、人を動かすんじゃない。——あんたは、それを教えてくれた」
レオハルトも、しみじみと料理を味わっていた。
「うむ。……やはり、絶品だ」彼は、ふと目を細めた。
「アスタリカの香辛料と、ヴァルドの大地の恵み。——本来、交わるはずのなかった二つが、一皿の中で、これほど見事に溶け合っている。まるで、これから我らが結ぼうとしている、絆そのものだな。——この味のためなら、何度でも兵を貸そう」
冗談めかした、その言葉。
けれど、そこには、確かな信頼が込められていた。
料理が結んだ縁は、こうして、いざというときの力になる。
王都での決戦を前に。
わたくしは、何より心強い絆を、結び直したのだった。
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