第92話 水鏡に映る影
平穏が破られたのは、ある朝のことだった。
ティナが、いつものように水鏡で村の見回りをしていたとき。
ふいに、その顔がこわばった。
「セラ様……来て。——変なものが、映ってる」
駆けつけると、ティナは、桶の水面をじっと見つめていた。
その水鏡には、ヴァルドのはるか外。
街道のあたりの景色が映っている。
そこに——いた。
黒ずくめの集団。
鉱山町で対峙した者たちと、同じ装束。
それが複数、ヴァルドへと続く街道を進んでいた。
「……また、来たんですね」
わたくしは、息をのんだ。
◇
すぐに、アルヴィスと、ダグを呼んだ。
「数は?」
アルヴィスが、鋭く問う。
「水鏡で見えるかぎり……十人、いえ、もっと」
ティナが青ざめた。
「鉱山のときより、ずっと多い。
それに——今度のは、ただの手駒じゃない。何か、もっと嫌な気配がする」
ダグが、地面に手を当てた。
「……地響きが聞こえる。馬の蹄。それに、武装した人間の足音。
——間違いない。こっちに向かってる」
ヴァルドが、狙われている。
——その事実に、背筋が冷えた。
けれど、すぐに考えを巡らせた。
なぜ、今、ヴァルドを。
鉱山で、ダグを取り逃がした報復か。それとも——。
「ティナ。——その集団の先頭。指揮を執っている者を、映せますか」
◇
ティナが、水鏡に意識を集中させる。
水面の像が、ぐっと寄っていく。
黒ずくめの集団の先頭。
馬上で、ゆったりと揺られる、一人の男の姿が、映し出された。
鋭い目つきの、長身の男だった。
見覚えはない。
けれど、その立ち居振る舞いには、ただ者ではない剣呑な迫力が、あった。
「あの男は……?」
ティナが、さらに水鏡を覗き込む。
「集団の中で、皆が、あの人を“ヴェルナー様”と呼んでる。
それに——時々、手元の、何か小さな鏡みたいなものに話しかけてる。誰かと、やりとりしてるみたい」
その言葉に、はっとした。
手元の鏡で、遠くの誰かと連絡を取る。
——あれは、こちらの水鏡と似たような、術具かもしれない。
つまり、あの男の背後に、本当に指示を出している者が、別にいる。
「……ヴェルナー。聞いたことのない名です」
唇を、噛んだ。
「でも、あの男を操っている者。——心当たりは、あります」
王太子を操り、わたくしを陥れ、王国を裏から蝕んでいた、あの男。
処刑前に脱走したと聞いていた——宰相。
あの狡猾な男なら、自らは安全な場所に身を置き、腹心を前線に立たせるだろう。
「脱走した宰相。——その腹心が、ヴァルドへ向かっている」
わたくしの声が、震えた。
世界の滅びを望む者たちの中枢に連なる、危険な男。
それが今、手駒を率いて、ヴァルドを狙っている。
◇
「知っている男か」
アルヴィスが、わたくしのただならぬ様子に気づいた。
「ええ」
頷いた。
「王国の、元宰相。わたくしを追放に追い込んだ、黒幕の一人。
——かつ、世界の滅びを企む者たちの、中心にいる男です。あのヴェルナーという男は、その腹心でしょう」
宰相は、決して自らは前に出ない。
安全な場所から、腹心に手駒を率いさせ、結果だけを見届ける。
——それが、あの男のやり方だった。
今回の襲撃も、宰相にとっては、何か別の狙いがあるはず。
それを、見誤ってはならない。
「狙いは、わたくしか。それとも、ダグや、ティナか」
「神の声を聞く者が、これだけ集まった、このヴァルドを。
——奴らは、見過ごせなくなったのかもしれません」
世界の声を聞く者たちの、集う場所。
それは、滅びを望む者たちにとって、最大の脅威。
だからこそ、宰相は、腹心を送り込み、その芽を摘もうとしている。
◇
「セバス! 村の女子供を、館の奥へ。動ける男手は、防備を固めて!」
わたくしは、すぐさま指示を飛ばした。
ヴァルドは、かつての痩せた辺境ではない。
屈強な働き手も、団結した村人も、いる。
一朝一夕で落とせる土地では、もはやない。
ティナの水鏡が、敵の接近を刻一刻と捉える。
ダグの地の声が、敵の進路を正確に読む。
アルヴィスが、村の守りを手際よく配する。
——かつて、たった二人で始めた辺境が、今や、これだけの人と力で、外敵に立ち向かおうとしている。
ふと、水鏡の中のヴェルナーが、薄く嗤った気がした。
手元の鏡に、何ごとか囁いている。
——その向こうの、宰相に。
こちらの動きを、逐一、報告しているのだろう。
その様子が、不気味だった。
あの宰相は、何か企みを抱えている。
ただ、力押しで芽を摘みに来た、単純な攻撃ではない。
「油断はできません」
わたくしは、気を引き締めた。
「あの男は、いつも、裏で糸を引くやり方を好みます。
——正面から来ると見せて、別の手を、隠しているはず」
そのときだった。
水鏡を覗いていたティナが、はっと息をのんだ。
「セラ様……ヴェルナーの集団とは、別に。
もう一つ、小さな影が……街道を逸れて、ヴァルドの裏手の山のほうへ」
やはり。
——唇を、噛んだ。
正面の大軍は、囮。
本命は、その隙に、別の道から忍び寄る、少数の手練れ。
宰相が腹心に授けた、狡猾な、二段構えだ。
「ダグさん。裏手の山は、地の声で追えますか」
「ああ。——任せろ」
ダグが、力強く頷いた。
「あいつらが、どこを通ろうと。
地面の上を歩くかぎり、俺の耳から逃れられねえ」
ティナの水鏡が、空と地表の死角を。
ダグの地の声が、足元の気配を。
——二人の力があれば、どんな奇策も見通せる。
敵の狡猾さを、こちらの結束が上回っていた。
◇
「迎え撃ちましょう」
わたくしは、皆を見回して言った。
その声に、もう、震えはなかった。
「ここは、わたくしたちの家です。守るべき人たちが、いる場所です。
——あの男の好きには、絶対にさせません」
アルヴィスが頷き、剣に手を添えた。
ダグが拳を握り、ティナが水鏡を抱きしめる。
皆の目に、覚悟の光が宿っていた。
かつて、わたくしを捨てた、あの宰相。
断罪の宴で、その罪を暴き、追い詰めたはずだった。
けれど、奴は処刑を逃れて生き延び、今、その手の者を、差し向けてきた。
ヴェルナーという、腹心。
そして、その背後で糸を引く、宰相。
——あの頃のわたくしとは違う。
今のわたくしには、守るべき仲間が、頼れる夫が、そして、救ってきた神々の加護が、ある。
「来なさい。——あの男の企みを、ここで、食い止めます」
ヴァルドの空に、不穏な雲が垂れ込めはじめた。
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