第91話 声を聞く者たちの、食卓
ダグが、ヴァルドに来て、ひと月。
無骨な青年は、すっかりこの地に馴染んでいた。
地の声を聞く力は、ヴァルドでも大いに役立った。
井戸を掘るべき場所。崩れそうな崖。鉱脈の在りか。
——彼が地面に手を当てれば、土地のあらゆる秘密が明らかになった。
「ここの地下に、水脈がある」
ダグが、乾いた畑の一角を指さした。
「掘れば、新しい井戸が作れるぜ。水やりが、ぐっと楽になる」
その言葉どおり、掘り当てた井戸は、こんこんと清らかな水を湧き出させた。
村人たちは、歓声を上げた。
かつて鉱山で嘘つきと笑われた青年が、今では、ヴァルドの頼れる技師だった。
◇
ティナと、ダグ。
二人の力は、見事に噛み合った。
ティナが、水鏡で作物や家畜の調子を読み。
ダグが、地の声で土地の状態を読む。
二人の知見を合わせれば、ヴァルドの農業は、これまで以上に豊かになっていった。
そして、その実りを、わたくしが料理に変える。
「今日は、ダグが掘った井戸の水と、ティナが見立てた野菜で、特製のスープを作りましょう」
採れたての瑞々しい野菜を、たっぷりと。
澄んだ井戸水で、じっくりと煮込む。
ティナが「いちばん甘い」と選んだ人参は、煮るほどに、とろりと蜜のような甘みを溶かし出した。
ダグの井戸水は、雑味がなく、素材の味をまっすぐに引き立てる。
仕上げに、香草をひとつまみ。
湯気とともに、爽やかな香りが、立ちのぼった。
ことこと、と煮える鍋を、ティナとダグが、わくわくと覗き込む。
「セラ様の料理、見てるだけで、お腹が鳴っちゃう」
「……俺、鉱山にいた頃は、飯なんて、腹が膨れりゃいいと思ってた。なのに、今は……飯の時間が、いちばんの、楽しみだ」
椀によそって、皆で囲む。
ひと口すすれば、野菜の甘みと香草の香りが、口いっぱいに広がった。
食卓を囲む、皆の顔がほころんだ。
「うめえ……」
ダグが、しみじみと呟いた。
「ヴァルドに来て、よかった。
——こんなあたたかい場所、知らなかった」
その言葉に、胸が温かくなる。
世界の声を聞く者たちが、一つの食卓を囲んでいる。
それは、不思議で、けれど、とても満ち足りた光景だった。
料理は、ただ腹を満たすだけのものではない。
傷ついた心を癒し、ばらばらだった者たちを、一つに繋ぐ。
——それを、改めて、実感する。
◇
その夜。
わたくしは、アルヴィスと二人で、夜風に当たっていた。
「賑やかに、なったな」
アルヴィスが、穏やかに言った。
「お前が来てから。
——この、ヴァルドは本当に変わった」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「飢えていた土地が実り。冷たかった人々の心がほどけて。
——そして今は、行き場のなかった子たちの居場所にも、なっている」
最初は、たった二人だった。
冷徹な辺境伯と、追放された令嬢。
それが、今では、こんなにもたくさんの人に囲まれている。
「全部、お前の料理が始まりだ」
アルヴィスが、わたくしを見つめた。
その瞳に、深い愛情が宿っている。
「お前は、ひと皿で、世界を変えていく。
——おれは、そんなお前を、誇りに思う」
「アルヴィス様……」
さらりと告げられる、その言葉に。
何度聞いても、胸が高鳴る。
冷たかったはずのこの人は、いつのまにか、わたくしをこんなにも甘く包んでくれる。
「……わたくし一人では、何もできませんでした」
わたくしは、彼に寄り添った。
「あなたが、隣にいてくれたから。
——ここまで来られたんです」
「逆だ」
アルヴィスが、静かに首を振った。
「おれのほうこそ。
——お前が来るまで、おれは、過去の罪に縛られて凍りついていた。領民を飢えさせた、あの後悔から、一歩も動けなかった」
彼の指が、わたくしの頬に、そっと触れた。
「お前が、その氷を溶かしてくれた。
——だから、おれは、もう一度前を向けた。お前は、おれにとっての、最初の一皿だったんだ」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
冷たかったはずのこの人が、こんなにもまっすぐに、想いを告げてくれる。
わたくしは、込み上げるものをこらえきれず、彼の胸に顔を埋めた。
◇
アルヴィスの腕が、そっと、わたくしの肩を抱き寄せた。
夜空には、満天の星。
ヴァルドの、穏やかな夜だった。
遠く、村のほうから、ダグと、ティナと、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
守りたいものが、増えた。
——それは、背負うものが増えた、ということでもある。
けれど、不思議と、重荷には感じなかった。
むしろ、その一つ一つが、わたくしを強くしてくれる。
「アルヴィス様。——わたくし、決めました」
星空を、見上げて言った。
「この、あたたかい場所を。みんなの笑顔を。
——絶対に守り抜きます。たとえ相手が、世界の滅びを望む者たちでも。“あのお方”でも」
「ああ。——二人でだ」
アルヴィスが、力強く頷いた。
「いや。もう、二人だけじゃないな」
その言葉に、わたくしは微笑んだ。
そうだ。もう、独りでも二人でもない。たくさんの仲間が、いる。
穏やかな夜が、更けていく。
——その夜気の甘さを、断ち切るように。
やがて、運命の歯車が、軋みを上げて、回りはじめるのだった。
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