第9話 氷の理由
翌日。約束どおり、わたくしはアルヴィスと二人、館を出た。
連れていかれたのは、館の裏手から続く、なだらかな丘だった。冬枯れの草を踏みしめて登っていくと、頂から、辺境ヴァルドの全景が見渡せた。痩せた畑。点在する小さな村。遠くに光る、海。
「きれいですね」
素直に、そう思った。豊かとは言えない。けれど、どこか、胸に沁みる景色だった。
「……ここは」
アルヴィスが、ぽつりと口を開いた。風に、彼の低い声が溶ける。
「戦の前は、もっと、緑があった。麦が実って、家畜が草を食み、村には子どもの声が響いていた。——おれが、守れなかった景色だ」
わたくしは、黙って彼の横顔を見た。
「五年前。隣国との戦が、この地を焼いた。おれは辺境伯として、兵を率いて戦った。——勝った。だが、守りきれなかったものが、多すぎた」
彼の手が、剣の柄を、無意識に握りしめる。
「多くの部下が死んだ。畑は焼かれ、蓄えは奪われ、生き残った領民は飢えた。おれは、領主でありながら、自分の民を飢えさせた。あの冬、何人もの村人が、寒さと飢えで死んでいくのを——ただ、見ていることしかできなかった」
淡々とした口調だった。けれど、その奥に滲む痛みの深さが、わたくしには痛いほど伝わってきた。
「それから、おれは、笑い方を忘れた。豊かな食卓も、あたたかい団欒も、おれには許されないと思った。死んでいった者たちを思えば、おれだけが幸せになるなど、できるはずがなかった」
“氷の死神”。
人々が彼をそう呼んだ理由を、わたくしは、ようやく理解した。彼は、冷たいから凍りついていたのではない。——償いきれない罪悪感に、自らを閉じ込めていたのだ。
「だが」
アルヴィスは、こちらを向いた。
「お前が来て、館に笑い声が戻った。村に、食べ物が戻った。——おれは、お前を見ていると、思ってしまうんだ。もう一度、この地を、あの頃のように緑あふれる土地に戻せるのではないか、と。……そんな資格、おれには、ないはずなのにな」
「資格なら、あります」
気づけば、わたくしは、強く言っていた。
「アルヴィス様。あなたは、自分の食を削ってでも、領民に食べ物を回し続けてきた。何年も、たった一人で、この土地を背負って。——それは、罪悪感だけでできることじゃありません。あなたが、心から、この土地と人を、愛しているからです」
彼の瞳が、揺れた。
「過去は、変えられません。失われた命も、戻りません。でも——これから先を、あたたかいものに変えていくことは、できます。それは、逃げでも、裏切りでもない。死んでいった人たちだって、きっと、望んでいます。残された人たちが、笑って生きていくことを」
風が、二人の間を吹き抜けた。
「だから——一緒に、取り戻しましょう。この土地の、緑を。人々の、笑顔を。あなたが、もう一度、心から笑える日を。わたくしが、その手伝いをします。ううん——させてください」
言いながら、わたくしは、自分の声が震えているのに気づいた。なぜ、こんなに必死になっているのだろう。領地のためだと、自分に言い聞かせる。けれど、本当はもっと単純で、もっと切実な理由が、胸の奥にあった。
——わたくしは、この人に、笑ってほしい。
ただ、それだけだった。氷のような無表情の奥に、こんなにも深い痛みを抱えていた人。その人が、ほんの少しでいいから、肩の荷を下ろして、あたたかいものを「おいしい」と感じられるように。気づけば、わたくしは、いつのまにか、そんなことばかり願うようになっていた。
長い、沈黙があった。
アルヴィスは、まじまじと、わたくしを見つめていた。氷が、溶けていく。彼の瞳の奥で、ずっと凍りついていた何かが、ゆっくりと、ほどけていくのが見えた。
やがて、彼は——笑った。
ぎこちなく、けれど、確かに。“氷の死神”が、五年ぶりに浮かべた、不器用な微笑み。それは、どんな豪奢な食卓よりも、心を打つ光景だった。
「……お前は、本当に、おかしな女だ」
「あら、ひどい」
「褒めている」
彼は、ふっと息をこぼし、それから、まぶしいものでも見るように、目を細めた。
「セラ。お前がこの地に来てくれて——本当に、よかった」
その言葉が、その笑顔が、胸の奥に、じんと染み込んでいく。
ああ、まずい、と思った。
わたくしは、この人のことを——もう、ただの「夫」とは、思えなくなっている。
◇
丘を降りる道すがら、わたくしは、ずっと考えていた。
この人のために、何かしたい。料理人として。そして——たぶん、それだけではない、別の気持ちで。
五年間、自分の幸せを許せずに生きてきた人。あたたかい食卓を、自分には不相応だと閉ざしてきた人。そんなアルヴィス様に、たった一皿でいい。「生きていて、よかった」と——そう、心から思えるような、そんな料理を、作ってあげたい。
それは、贅沢な食材で作る、豪華なごちそうではない。きっと、もっと素朴で、もっとあたたかくて、彼の凍りついた心の、いちばん奥まで届くような、そういう一皿。
けれど——それが、どんな料理なのか。彼が本当に求めているものが何なのか、わたくしは、まだ知らない。戦の話は聞けた。でも、彼の“好きなもの”を、わたくしはまだ、何ひとつ知らないのだ。
(……そうだ。あの人なら、知っているかもしれない)
ふと、長くこの館に仕える、あの老家令の顔が浮かんだ。
「アルヴィス様」
わたくしは、隣を歩く彼を見上げた。
「明日の夜、楽しみにしていてください。——とっておきの、一皿をお作りします」
きょとんとする彼に、わたくしは、ただ、にっこりと笑ってみせた。
胸の奥で、新しい決意が、あたたかく灯っていた。
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