第8話 王都の食卓は、静かに腐る
ところ変わって、王都。
その夜、王太子オルランドは、不機嫌に晩餐のフォークを置いた。
「……まずい」
目の前の皿——宮廷料理人が腕によりをかけたはずの一品を、彼は忌々しげに睨みつけた。見た目は豪華だ。高価な香辛料がふんだんに使われ、銀の皿に美しく盛りつけられている。けれど、ひと口食べた瞬間、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
何かが、違う。
味が、ぼやけている。香辛料の匂いばかりが鼻について、肝心の料理そのものに、芯がない。深みがない。食べても食べても、満たされない。まるで、よくできた紛い物を口に運んでいるような——そんな、もどかしさ。
それだけではなかった。このところ、宮廷の食事は、どれもこれも、どこか「ずれて」いた。スープは塩が立ちすぎ、肉は火を通しすぎて硬く、せっかくの高級食材が、ことごとく台無しにされている。一流の料理人を揃え、金に糸目をつけず食材を集めているはずなのに、なぜ。
「料理長を呼べ!」
呼びつけられた宮廷料理長は、青い顔で平伏した。
「申し訳ございません、殿下。最高の食材を、最高の技術で……」
「ならば、なぜこうもまずい! 以前は、こんなことはなかったぞ!」
オルランドは苛立たしげに吐き捨てた。けれど、彼自身、その「以前」がいつまでだったのか、うすうす気づきはじめていた。
——セレスティアが、いた頃まで。
あの女は、晩餐のたびに、料理に文句をつけていた。「この出汁は雑味が多い」「火の入れ方が甘い」「香辛料に頼りすぎて、素材が死んでいる」と。耳障りで、生意気で、目障りだった。だから、追い出した。
けれど、今になって、思い知る。あの小うるさい指摘は——いつも、正しかったのだ。
彼女がいた頃、料理人たちは緊張感を持って厨房に立っていた。あの鋭い舌に、下手なものは出せないと。けれど、彼女がいなくなった途端、その緊張は緩み、宮廷の食は、坂を転がるように質を落としていった。誰も、本当の味がわかる者がいなくなったから。
「……ちっ」
オルランドは、舌打ちして席を立った。食欲は、すっかり失せていた。
「オルランド様ぁ、もう食事は終わりですの?」
甘ったるい声とともに、男爵令嬢のミレーユが、しなだれかかってきた。婚約者の座におさまった彼女は、このところ、すっかり我が物顔で宮廷を歩いている。
「ねえ、それより聞いてくださいまし。わたくし、新しいドレスが欲しいんですの。それと、先日の宝石も。セレスティア様がいた頃は、公爵家がいろいろ用立ててくれたのでしょう? わたくしにも、同じようにしてくださらなくちゃ」
オルランドは、うんざりと眉をひそめた。
このところ、ミレーユのねだりごとは、際限がない。可憐な笑顔の裏に、底の見えない欲が透けて見える。婚約者に選んだときは、あんなに無邪気で愛らしいと思ったのに。——いや。本当に愛らしかったのは、彼女のために陰で気を配り、波風が立たないように立ち回っていた、別の誰かだったのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎって、彼は慌てて打ち消した。馬鹿馬鹿しい。あんな、料理にしか興味のない、可愛げのない女のことなど。
「……好きにしろ」
吐き捨てるように言って、オルランドは食堂を後にした。残されたミレーユは、勝ち誇ったように微笑むと、冷めた料理を一瞥し、「やっぱり、まずいわね」と扇で口元を隠した。
彼女もまた、気づいていなかった。自分が今、座っている椅子が——少しずつ、ぐらつきはじめていることに。
◇
それは、宮廷の食卓だけの話ではなかった。
セレスティアの実家——ルクレツィア公爵家もまた、奇妙な不調に見舞われていた。
長年、公爵家の食を支えてきた古参の料理人たちが、なぜか次々と辞めていく。後任はうまく育たず、晩餐の質は落ちる一方。社交界で評判だった「ルクレツィアの食卓」の名声は、ゆっくりと、けれど確実に、陰りはじめていた。
誰も、知らなかった。
あの「役立たず」と蔑まれた令嬢が、実はずっと、厨房に通っては料理人たちに助言を与え、食材の目利きをし、見えないところで、その輝かしい食卓を支えていたことを。
彼女がいなくなって、はじめて、その不在の大きさが、じわじわと滲み出してくる。失ってから気づく。そういうものは、いつだって、取り返しがつかなくなってから、その価値を知らしめる。
ある夜の晩餐の席で、公爵——セレスティアの父は、出された料理に手をつけることなく、深いため息をついた。
「……どうも、近頃の食事は、味気ない」
向かいに座る夫人が、不快げに眉を寄せる。「あの子のことを、思い出していらっしゃるの?」
「いや」と公爵は言いかけて、口をつぐんだ。けれど、その胸には、認めたくない後悔が、小さな棘のように刺さっていた。出来の悪い、厄介な娘。社交界の笑いものになる前に、辺境へ片付けてやった——そのつもりだった。なのに、なぜだろう。あの娘がいなくなってから、この屋敷の何もかもが、少しずつ、色褪せていくように感じるのは。
「気のせいだ」
公爵は、無理やりそう結論づけて、冷めた料理に手を伸ばした。やはり、味がしなかった。
◇
一方、その同じ夜。
辺境の地では、捨てられた令嬢が、あたたかな食堂の真ん中で、人々の笑顔に囲まれていた。
王都が静かに飢えはじめていることなど、彼女はまだ知らない。知る必要も、なかった。彼女は今、自分の手で、新しい食卓を——新しい居場所を、築きあげているのだから。
二つの食卓が、ゆっくりと、明暗を分けていく。
光あふれる、辺境の食卓。 そして、豊かさの中で静かに腐っていく、王都の食卓。
そして、その夜。
味気ない晩餐に耐えかねたオルランドは、宰相を執務室へ呼びつけ、苛立たしげに命じた。
「辺境へ品を卸している、“食の魔術師”とやらを調べ上げろ。そいつを王都へ召し上げる。宮廷の食を、元に戻させるのだ」
「……かしこまりました。ただちに、素性を」
頭を垂れる宰相を見下ろし、オルランドは、まだ知らずにいた。その“魔術師”が、自らが切り捨てた、あの女であることを。そして、その一つの命令が、北の辺境で芽吹いたばかりの幸福を、根こそぎ揺るがそうとしていることを。
歯車が、静かに、回りはじめた。
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