第7話 行商人ハンス、街から帰る
ハンスが街へ向けて旅立ってから、半月。
最初の荷——魚醤と保存食を満載した荷馬車を見送ったとき、正直、不安がなかったといえば嘘になる。売れなければ、漁村と館の苦労が、すべて水の泡。ハンスを信じてはいたけれど、辺境の無名の品が、街でどう受け止められるかは、誰にもわからなかった。
だから、館の門前に砂埃が立ち、聞き慣れたしわがれ声が響いたとき——わたくしは、思わず駆け出していた。
「奥方様ーっ! 帰りましたよーっ!」
荷馬車から飛び降りたハンスは、行きとはまるで別人だった。顔は上気し、目はらんらんと輝き、声は弾んでいる。
「どうでした!? 売れましたか!?」
「売れたなんてもんじゃありませんや!」
ハンスは、興奮もあらわに、荷台から空になった樽を叩いてみせた。
「街に着いて、試しに食堂の一軒へ魚醤を持ち込んだんですがね。親父が、ひと舐めした途端に目の色変えやがった。『これを、いくらでもいいから卸してくれ』ってね! 噂はあっという間に広がって、気づきゃ料理屋の親父どもが店の前に列をなしてた! 保存食も、燻製肉も、あるだけ全部、その日のうちに——!」
彼は、ずしりと重い革袋を、わたくしの手に押しつけた。
中を覗いて、わたくしは息を呑んだ。銀貨。それも、かなりの数。辺境では、何年も目にしたことのなかったであろう、まとまったお金。
「これは……」
「初回の、売上の取り分でさ。村と領地に、ちゃんと潤う値で売った。約束どおりにね」
ハンスは、得意げに胸を張り、それから、しみじみと続けた。
「……なあ、奥方様。おれぁ街で、何人もの料理人に聞かれましたよ。『この極上の品は、どこの誰が作ってるんだ』ってね。辺境ヴァルドの名が、街で囁かれはじめてる。あんたが蒔いた種が、ちゃんと芽を出してるんだ」
それからハンスは、ふと声をひそめた。
「……ただね、奥方様。ひとつ、気になることがありまして」
「気になること?」
「街でいちばん大きな商会の使いが、おれを訪ねてきたんですよ。『辺境の品をどこで仕入れた、卸元を教えろ』ってね。妙に、しつこくて。聞けば、その商会、王都の偉いさんと繋がってるって話で。——なんだか、嗅ぎつけられた、って感じが、どうもね」
わたくしは、小さく眉を寄せた。けれど、まだそれは、遠い空の小さな雲のようなもの。今は、目の前の喜びのほうが、ずっと大きかった。
「教えなかったんですよね?」
「当たり前でさ。これはおれと奥方様の、大事な金脈だ。そう簡単に、よそに渡してたまるかってんで」
ハンスは、にっと笑った。けれどわたくしは、その雲のことを、頭の隅に、そっと留めておいた。豊かになるということは、誰かに狙われるということでもある。——前世で、嫌というほど学んだことだった。
◇
その銀貨が、辺境を変えはじめた。
わたくしは、得られたお金を、すぐに村へ還した。新しい樽を買い、傷んだ漁具を直し、塩を大量に仕入れる。子どもたちには、久しぶりにまともな食事を。働いた者には、正当な報酬を。
お金が、回りはじめる。
止まっていた血が、また流れ出すように。痩せた村に、少しずつ、活気が戻っていく。漁師たちは、以前より熱心に海へ出るようになった。獲った魚が、もう無駄にならないと知ったから。働けば、報われると知ったから。
「奥方様のおかげで、うちの子に、新しい靴を買ってやれました」 「今年の冬は、ひもじい思いをさせずにすみそうです」
村人たちの、そんな言葉のひとつひとつが、わたくしの胸を熱くした。
ある日、漁村を訪ねると、老漁師が、はにかみながら一枚の干物を差し出してきた。「奥方様に教わったやり方で、孫と一緒に作ってみたんでさ。……どうか、味を見てやってくだせえ」と。ひと口かじると、丁寧に下処理された身に、旨味がぎゅっと凝縮されていた。わたくしが教えた以上の工夫が、そこには加えられていた。
「……すごい。わたくしより、お上手です」
そう言うと、皺だらけの顔が、くしゃっと崩れた。「へへ、もう、孫が夢中になっちまって。あいつ、漁師になりたいって言い出したんですよ。この村に、未来があるって、信じられるようになったんでさ」
胸が、詰まった。これだ。わたくしが渡したかったのは、魚醤の作り方そのものじゃない。「明日は、今日よりよくなる」と信じられる——その、希望なのだ。
これだ。これが、見たかったものだ。一杯のあたたかい料理が、人を笑顔にする。その笑顔が、村を動かし、土地を潤していく。料理は、ただ腹を満たすだけのものじゃない。人を、暮らしを、未来を、変える力を持っている。
前世のわたくしは、それを信じきれないまま、すり減って倒れた。けれど今度こそ——わたくしは、それを証明してみせる。
◇
「ずいぶん、生き生きしているな」
その日の夜、執務室に呼ばれたわたくしに、アルヴィスがそう言った。机の上には、領地の帳簿が広げられている。
「お前が来てから、領の収支が、初めて上向いた。長年、赤字を垂れ流すばかりだったこの辺境が、だ」
彼は帳簿から顔を上げ、まっすぐにわたくしを見た。
「正直に言う。おれは、お前を侮っていた。王都が押しつけてきた、厄介者の令嬢——最初は、そう思っていた。すまなかった」
「アルヴィス様、そんな」
「だが、今は違う」
彼は立ち上がり、わたくしの前に来た。間近で見上げる彼の瞳は、もう、氷の色ではなかった。
「お前は、おれの誇りだ。この辺境にとって、何より得難い宝だ。——だから、セラ。ひとつ、頼みがある」
「……はい?」
アルヴィスは、ほんの一瞬、言いよどんだ。常に冷静なこの人が、珍しく、迷うように視線を揺らして。それから、意を決したように、口を開いた。
「明日、半日でいい。——おれと、二人で、出かけてくれないか。仕事ではなく」
それは、不器用すぎる、けれど確かな——彼からの、はじめての誘いだった。
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