第10話 やり直しの味
その夜、丘から戻ったわたくしは、家令のセバスを、そっと厨房に呼んだ。
「セバス。ひとつ、教えてほしいことがあるんです。——アルヴィス様の、お好きだったものを」
老いた家令は、少し驚いたように目を瞬かせ、それから、懐かしそうに目を細めた。
「……奥方様。旦那様はね、昔は、それはよく笑うお子様だったんですよ」
ぽつり、ぽつりと、セバスは語りはじめた。アルヴィス様の、亡くなったお母上のこと。身体の弱い方で、けれど料理がお好きで。寒い冬の日には、決まって、素朴なシチューを煮込んでいたこと。幼いアルヴィス様が、それを「世界で一番うまい」と、頬を真っ赤にして頬張っていたこと。
「お母上が亡くなられて、戦が始まって……旦那様は、笑い方を、お忘れになった。あのあたたかい台所も、もう、遠い昔です」
セバスの声が、湿った。「旦那様は、決してご自分からは仰いません。あの方は、弱さを見せることを、ご自分に許さない方ですから。——でも、わたくしは、知っております。旦那様が、本当はずっと、あの頃の食卓を、恋しがっておられることを」
わたくしは、静かに頷いた。胸の奥に、ひとつの料理が、はっきりと像を結んでいた。
◇
翌日、わたくしは朝から厨房にこもった。
作るのは、シチューだった。
ごく素朴な、家庭の煮込み。けれど、わたくしはそこに、この辺境のすべてを注ぎ込むつもりだった。村で育てた根菜。漁村の魚醤で、こっそり旨味の底上げを。じっくり時間をかけて煮込んだ、屑肉とは思えないほど柔らかな肉。香草の使い方ひとつ、火加減ひとつまで、《美食家の舌》の導きに従って、丁寧に、丁寧に。
セバスから聞いた、あの“あたたかい台所”の味を。
わたくしは、再現しようとしているのではない。お母上の味そのものは、わたくしには作れない。——けれど、彼の心の、いちばんやわらかい場所に触れる一皿なら。新しい“あたたかい記憶”を、これから先に繋がる味なら、きっと、作れる。
煮込んでいる間、わたくしは、ずっと祈るような気持ちだった。
どうか、届きますように。あの人の、凍りついた心の、いちばん奥の、やわらかい場所まで。「生きていて、よかった」と——たった一度でいい、そう思ってもらえますように。
◇
その夜。
ことこと、と湯気を立てるシチューを、わたくしはアルヴィスの前に置いた。
「どうぞ。召し上がってください」
彼は、不思議そうに皿を見下ろした。豪華さなど、どこにもない。素朴な、茶色い煮込み。けれど、立ちのぼる湯気の香りに、彼の瞳が、わずかに見開かれた。
「……この匂いは」
「さあ、冷めないうちに」
アルヴィスは、ゆっくりと匙を取った。湯気を、ひと吹き。そして、口に運ぶ。
とろりと煮溶けた根菜が、舌の上で甘くほどける。柔らかな肉が、ほろりと崩れる。魚醤がそっと忍ばせた旨味の底が、滋味となって、じんわりと体の芯まで沁みていく。派手さなど、どこにもない。ただ、どこまでも、やさしい味。寒い夜に、誰かが自分のためだけに、時間をかけて作ってくれた——その温もりが、まるごと溶け込んだような、一皿。
その瞬間。
彼の動きが、止まった。
匙を持つ手が、かすかに震えた。見開かれた瞳が、ゆらりと潤む。氷の死神と呼ばれた、あの冷徹な男の頬を——一筋、涙が、伝った。
「アルヴィス様……?」
彼は、答えなかった。
ただ、その瞳が、はるか遠くを——もう戻らない、どこか懐かしい場所を見ているようだった。震える唇から、ようやくこぼれたのは、たった一言。
「……あたたかい」
それだけだった。
けれど、わたくしには、わかった。セバスが語ってくれた、あのあたたかい台所。世界で一番うまいと頬張った、幼い日の食卓。それが今、彼の中で、静かによみがえっているのだと。
彼は、片手で目元を覆った。大きな背中が、小さく震えている。五年間、誰の前でも崩さなかった氷の仮面が、たった一皿のシチューの前で、音もなく溶けていく。多くを語らないその姿が、どんな長い告白よりも雄弁に、彼の心の奥を物語っていた。
わたくしは、何も問わなかった。ただ、そっと寄り添うように、囁いた。
「——おかわり、ありますからね」
アルヴィスは、声もなく泣いていた。それから、ゆっくりと顔を上げ——濡れた瞳のまま、けれど、今までで一番やわらかく、笑った。
「セラ」
「はい」
「おれは、お前と出会うために、生まれてきたのかもしれない」
不意打ちの言葉に、心臓が、跳ねた。
「ご、ご飯が、冷めますよ」
「ああ。——いただくよ。お前の作る、世界一の味を」
彼は、今度は涙を隠さず、一匙、また一匙と、大切そうにシチューを口へ運んだ。その姿を見ているだけで、わたくしの胸は、はちきれそうにあたたかくなる。
捨てられた令嬢と、氷の死神。
最悪の始まりだったはずの二人は、いつのまにか、こんなにも近くにいる。一皿のあたたかい料理が、二つの凍えた人生を、ゆっくりと、溶かしてくれた。
これは、やり直しの味。
——わたくしと、この人の、新しい人生の始まりの味だ。
窓の外では、今年はじめての雪が、ちらちらと舞いはじめていた。けれど、もう寒くはなかった。食卓には湯気が立ちのぼり、向かいには、不器用に笑う人がいる。
前世のわたくしが、最後まで手に入れられなかったもの。すり減って、倒れて、それでも欲しかったもの。——それが、いま、この何もない辺境の片隅に、確かにある。
わたくしは、もう二度と、これを手放さない。
そう、静かに、心に誓った。
◇
その頃。
辺境ヴァルドへと続く街道を、一台の豪奢な馬車が、北へ向かって走っていた。
車内に揺られるのは、王都からの使者。胸に抱えるのは、王家の紋章が捺された、一通の書状。
「まったく、こんな辺境くんだりまで……。しかし、あの“食の魔術師”とやらの正体が、まさか、捨てられたはずのセレスティア嬢だったとはな」
使者は、手の中の書状を、忌々しげに見つめた。
王都の食を立て直すため、彼女を呼び戻せ——否、連れ戻せ。それが、この書状に記された、王命だった。
辺境のあたたかな食卓に、王都の影が、ひたひたと忍び寄る。
セラとアルヴィスの、ささやかで幸福な日々。それが、大きく揺れ動く、嵐の前夜。
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