第11話 お断りいたします
その馬車が辺境ヴァルドの門前に着いたのは、雪のちらつく、よく晴れた朝のことだった。
豪奢な、王都仕様の馬車。粗末な村の風景の中で、それは異様なほど浮いて見えた。降りてきたのは、仕立てのいい外套に身を包んだ、神経質そうな中年の男。王家の使者だ。彼は、寒さに顔をしかめながら、汚いものでも見るように、辺境の館を見回した。
「これはこれは。噂に聞く“食の魔術師”殿は、こんな辺鄙な土地においでとは」
応接間に通された使者は、慇懃無礼に切り出した。そして、王家の紋章が捺された書状を、これ見よがしに広げてみせる。
「単刀直入に申し上げる。セレスティア殿。あなたには、王都へ戻っていただく。宮廷の食を立て直すため、あなたの腕が必要なのです。——これは、王太子殿下、じきじきのご命令ですぞ」
わたくしの隣で、アルヴィスの気配が、ぴりっと張りつめるのがわかった。けれど、わたくしは、努めて穏やかに微笑んだ。
「まあ。それはそれは、わざわざ遠いところを」
「では——」
「お断りいたします」
使者の顔が、ぴしりと凍りついた。
「……何と?」
「お断りいたします、と申し上げました」
わたくしは、もう一度、はっきりと繰り返した。「わたくしは、辺境伯アルヴィス様に嫁いだ身。この地で、果たすべき務めがございます。王都へ戻るつもりは、ございません」
「な……っ、貴様、王命を、王太子殿下のご命令を、断ると言うのか!?」
使者は、顔を真っ赤にして立ち上がった。「身の程をわきまえよ! 貴様など、出来損ないとして王都を追われた身ではないか! それを、殿下のご温情で、再び召し上げてやろうというのだぞ! 恥を知れ!」
唾を飛ばす使者を、わたくしは、静かに見つめ返した。胸の奥に、もう、かつてのような痛みはなかった。出来損ない。役立たず。さんざん浴びせられてきた言葉。けれど今、それはわたくしを傷つける刃には、ならない。
「ご温情、ですか」
わたくしは、ゆっくりと口を開いた。
「殿下は、わたくしを大勢の前で罵り、婚約を破棄し、厄介払いのようにこの地へ追いやられました。それが、ご温情。——そして、ご自身の食卓が立ち行かなくなった途端、今度は連れ戻せ、と。ずいぶん、都合のよろしいことですこと」
「き、貴様……!」
「わたくしは、もう、誰かの都合で生きるのは、やめたのです」
使者は、わなわなと震えていたが、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。怒りの奥に、狡猾な光が宿る。
「……いいでしょう。そこまで言うのなら、無理にとは申しません。ですがね、セレスティア殿」
彼は、声を低めた。「あなた方がこしらえている、その魚醤とやら。街で評判のようですな。けれど——その品が、これからも滞りなく街で売れると、お思いか? 商いというものは、誰かの一存で、いとも簡単に止められるものですよ。王都に通じた、大きな商会の、ね」
その言葉に、わたくしは、すっと目を細めた。脅し。それも、はったりではない。この男の後ろには、確かに、それを実行できるだけの力がある。
「……何が、おっしゃりたいのです」
「賢いあなたなら、おわかりでしょう。素直に王都へ来れば、すべて丸く収まる。意地を張れば——この辺境が、せっかく掴みかけた“金脈”を、失うことになるやもしれません。さて、どちらが、領民のためですかな?」
応接間の隅に控えていた家令のセバスが、ぐっと拳を握りしめた。使用人たちの顔にも、不安の色がよぎる。けれど——誰一人、わたくしに「王都へ行ってくれ」とは言わなかった。むしろ、彼らはそっとわたくしの背後へ寄り添い、無言で、わたくしの側に立った。
その温もりが、背中から伝わってくる。ああ、と思う。わたくしには、もう、守りたいものが、ちゃんとある。
「ご忠告、痛み入ります」
わたくしは、にっこりと微笑んだ。「ですが——脅しで、わたくしの答えは変わりません。商いを止めたければ、どうぞ。わたくしは、何度でも、新しい道を作るだけです」
◇
そのとき。
「——その辺にしておけ」
低く、凍えるような声が、応接間の空気を切り裂いた。
アルヴィスだった。立ち上がった彼が、使者を見下ろしている。氷の死神。戦場でその名を聞いただけで震え上がる者もいるという、辺境の覇者。その双眸が、いま、剥き出しの刃のように、使者を射抜いていた。
「セラは、おれの妻だ。この辺境伯領の、女主人だ。——その妻を、出来損ないと罵ったな?」
「ひっ……!」
「もう一度言ってみろ。この場で、二度と口がきけぬようにしてやる」
殺気だった。本物の。使者は、腰を抜かさんばかりに後ずさり、がたがたと震えだした。
「ま、待て、これは王命だぞ! 辺境伯とて、王家に逆らえば——!」
「逆らう? 笑わせるな」
アルヴィスは、冷ややかに吐き捨てた。「妻が、自らの意志で王都行きを断った。それだけのことだ。無理やり連れ去ろうというなら——それは王家の使者ではなく、ただの誘拐犯だ。この地で、おれが、相応に処理する」
完全な、拒絶だった。
使者は、何か言い返そうと口を開いては、アルヴィスの眼光に射すくめられ、結局、一言も発せなかった。やがて彼は、屈辱に顔を歪めながら、捨て台詞を残した。
「……後悔するぞ! 王家を敵に回したこと、必ず後悔させてやる!」
そう叫んで、転がるように館を出ていった。豪奢な馬車が、来たとき以上の速さで、南へと走り去っていく。
それを窓から見送って、わたくしは、ほっと息をついた。
「……アルヴィス様。ありがとうございました。でも、よろしかったのですか。王家を、敵に回すような真似を」
「構わん」
アルヴィスは、こともなげに言った。それから、ふと、わたくしを見下ろして——その硬い表情を、わずかにゆるめた。
「言っただろう。もう、誰にも、お前を役立たずなどとは言わせん、と。——あれは、本気だ」
不意打ちの言葉に、また、胸が高鳴ってしまう。
けれど、わたくしは知らなかった。あの使者の捨て台詞が、ただの負け惜しみではなかったことを。王都の影は、もっと狡猾な形で、すぐそこまで迫っていたのだ。
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