第87話 地の声を聞く者
東への旅は、十日あまりに及んだ。
平野を抜け、丘陵を越え、やがて行く手に、岩肌の剥き出した険しい山並みが現れた。
そのふもとに、目指す鉱山の町は、あった。
すり鉢状の谷に、へばりつくように築かれた灰色の町。
あちこちに、坑道の入り口がぽっかりと口を開け、石炭と鉄の匂いが立ち込めている。
鉱夫たちが、煤に汚れた顔で忙しく行き交っていた。
「ここに……その人が」
ティナが、水鏡の桶を抱えながら町を見渡した。
「うん。近い。——すぐ、近くにいる」
◇
町に入って、すぐ。
わたくしたちは、ただならぬ空気を感じた。
鉱夫たちの顔に、濃い疲労と不安の影。
立ち話に耳を澄ませると、不穏な言葉が聞こえてくる。
「また、新しい坑道で、落盤だとよ」
「今月で、三度目だ。死人も出た。——この山は、呪われてる」
「あの小僧が、“掘るな”と騒いでたのに。聞かなかったからだ」
「ばかを言え。あんな、地面の声が聞こえるなんて戯言。気味の悪い小僧の、出まかせだろう」
地面の、声。
——その言葉に、ティナと顔を見合わせた。
間違いない。
◇
町外れの廃坑の近くで、一人の青年が、岩に腰かけうなだれていた。
歳は、二十歳そこそこだろうか。
痩せて、煤けた身なりの若者だった。
鉱夫の一人らしい。
けれど、その表情には、深い孤独と無力感が刻まれていた。
「あなたが……地の声を聞く人ですか」
声をかけると、青年は、力なく顔を上げた。
あるいは自嘲するように笑った。
「……またか。気味の悪い小僧を見物しに来たのか。それとも、“嘘つき”をなじりに来たのか」
「いいえ」
わたくしは、首を振った。
「あなたの声を、聞きに来ました」
青年は、けげんそうにわたくしを見た。
「俺はな、聞こえるんだ。——地面の、声が」
彼は、吐き出すように言った。
「どこの岩がもろくなってるか。どこで地が軋んでるか。
——だから、“あの坑道は危ない、掘るな”と、何度も言った。なのに、誰も信じやしねえ。気味が悪いと、嘘つきだと笑うだけ。——そして、落盤が起きて、人が死んだ」
◇
青年の握りしめた拳が、震えていた。
「俺が、もっとうまく伝えられてたら。みんなが信じてくれてたら。
——あいつらは、死なずに済んだ。なのに、俺は……何も、できなかった」
その苦しみは、ティナとも、わたくしとも、違っていた。
ティナは、力ゆえに疎まれ、孤独だった。
けれど、この青年は——力があるのに、それを誰にも信じてもらえない。
警告できるのに、届かない。
救えるはずの命を、目の前で失っていく。
それは、無力感という名の、もっと深い地獄だった。
「あなたの力は、本物です」
青年の前に、膝をついた。
「気味の悪いものでも、嘘でも、ありません。
——あなたは、本当に、地の声を聞いている」
青年が、はっと息を呑んだ。
「あなたは……俺を信じるのか? なぜ」
「わたくしも、聞こえるからです。——食材の、声が。そして、この子は」
ティナを、見た。
「水鏡で、生き物の声を聞きます。
——あなたは、独りじゃない。同じ力を持つ者は、ちゃんといるんです」
青年の、煤けた頬を。
一筋の涙が伝い落ちた。
長く、誰にも信じてもらえなかった、その心に。
初めて届いた言葉が、あったのだ。
「俺は……ダグ」
青年は、震える声で名乗った。
「あんたたちは……本当に、俺と同じ……?」
◇
その夜。
わたくしたちは、ダグを宿に招き、食事を共にした。
旅の道具で、ありあわせの、けれど心を込めた一皿を作る。
あたたかいスープを、ダグは、おそるおそる口にした。
すると、ダグは、目を見開いた。
「……うまい。なんだ、これ。
こんな、あったかい飯……いつ以来だ」
煤と孤独にまみれた日々の中で、ダグは、ろくな食事もしていなかったのだろう。
湯気の立つ椀を、両手で包むように持ち、彼は、しばらく黙って、それを見つめていた。
その肩が、小さく震えていた。
「あんたたちは……なんで、こんなに、俺に、優しくするんだ」
「同じ痛みを、知っているからです」
わたくしは、静かに答えた。
「信じてもらえない、つらさを。——だから、放っておけないんです」
ダグは、スープをすすりながら、ぽつり、ぽつりと身の上を語りはじめた。
彼は、この町で生まれ育った鉱夫の息子だった。
幼い頃から、地の声が聞こえた。
父も仲間も、その力を「気味が悪い」と遠ざけた。
それでも、ダグは、町を出なかった。
「出て、いきゃ楽だったさ」
彼は、自嘲した。
「でも……俺の警告を聞かなかったせいで、死んだ奴がいる。
その償いに……せめて、これ以上、誰も死なせたくなくて。嫌われても、嘘つきと罵られても、“あの坑道は危ない”と叫び続けてきた。——でも、もう限界だ。誰も、聞いちゃくれねえ」
その言葉に、わたくしの胸は締めつけられた。
疎まれてなお、町の人々を救おうと、独りで叫び続けてきた青年。
その姿は——忘れられてなお人を想い、声をあげ続けた風の神に、どこか重なった。
「ダグさん。あなたは、立派です」
まっすぐに、彼を見た。
「嫌われても、誰かを守ろうとし続けた。
——その優しさは、決して無駄じゃない。わたくしが、保証します」
ダグは、くしゃりと顔を歪め。
そして、子どものように、声を殺して泣いた。
◇
鉱山の町で。
地の声を聞く青年と、わたくしたちは、いま、確かに繋がった。
涙を拭うダグの顔には、もう、あの自嘲の影はなかった。
長く凍えていた心が、一杯のスープと、たった一言の「信じる」でほどけていく。
——料理は、やはり、どんな孤独にも届くのだ。
その手応えを、わたくしは、静かに噛みしめていた。
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