第85話 新しい家族
ティナを連れて、わたくしたちは、ヴァルドへ帰り着いた。
長旅の末の、なつかしい我が家。
門前では、いつものようにセバスや村人たちが、出迎えてくれた。
けれど、見慣れない少女の姿に、皆、不思議そうな顔をする。
「奥方様。そちらの、お嬢さんは……?」
「ティナといいます。——これから、ヴァルドで一緒に暮らす子です」
少女の肩に、そっと手を置いた。
「事情があって、行き場のない子なんです。——どうか、温かく迎えてあげてください」
ティナは、緊張に身を硬くして、わたくしの後ろに隠れるようにしていた。
長く人に怯えて生きてきた、その癖が抜けないのだろう。
けれど、その緊張は、長くは続かなかった。
ヴァルドの人々は、あたたかかった。
セバスは、孫を見るような目でティナに部屋を用意し、マルクは、腕によりをかけた料理で彼女をもてなした。
村の子どもたちは、すぐにティナを遊びに誘う。
おずおずとしながらも、彼女は、その輪に加わっていった。
その夜。わたくしは、ティナのために、特別な夕食を作った。
彼女の好きなものを聞きながら。
あたたかいスープ。ふっくらと焼いたパン。蜜をかけた焼き菓子。
——食卓いっぱいに並んだ料理を前に、ティナは、目を丸くしていた。
「こんなに……わたしのために?」
「ええ。たくさん食べてください」
わたくしは微笑んだ。
「ここでは、もう、誰もあなたを怖がりません。お腹いっぱい食べて、ぐっすり眠って。——少しずつ、慣れていけばいいんです」
ひと口スープを飲んだティナの目から、ぽろり、と涙がこぼれた。
「……あったかい」
それは、料理の温かさだけではなかった。
長く凍えていた、その心が、ようやく溶けはじめた。そんな涙だった。
ティナがヴァルドに来てから、ひと月が経つ頃。
ティナは、見違えるように明るくなっていた。
村に馴染み、頬には赤みがさし、笑顔も増えた。
けれど——その力のことになると、彼女は、まだ、怯えを隠せなかった。
ある日。ティナが、おずおずとわたくしの袖を引いた。
「セラ様……あの。怒らないで、聞いてくれますか」
その声は、震えていた。
「実は……水鏡に、いろんなものが、映るんです。畑の野菜が、“もっと水がほしい”って。家畜たちが、“あっちの草が食べたい”って。——みんなの声が、聞こえるの。……やっぱり、気味が悪い、ですよね」
長く「化け物」と蔑まれてきた少女には、力を打ち明けることそのものが恐怖なのだ。
また拒まれるのではないか。
その怯えが、痩せた肩を強張らせていた。
けれど、わたくしは、その手を優しく握った。
「気味が悪いだなんて、とんでもない。——それは、驚くべき力です」
動植物の声なき声を、水鏡を通して読み取る。
——わたくしの《美食家の舌》が、食材の声を聞くように。
ティナの力は、生き物たちの声を聞く。
「ティナ。その力があれば、畑も、家畜も、もっと健やかに育てられます。——あなたは、この土地の、大きな助けになれますよ」
ティナの顔が、ぱっと輝いた。
誰かの役に立てる。
それは、ずっと厄介者だった少女にとって、何より嬉しい言葉だった。
さっそく、ティナの力は、ヴァルドで活躍しはじめた。
彼女が水鏡で聞き取った、作物の“声”は、驚くほど的確だった。
元気のなかった畑の一角を、ティナが「水が多すぎて、根が苦しがっている」と言うので、水やりを控えてみると。
萎れかけていた株が、みるみる生気を取り戻していく。
家畜たちの“声”を聞けば、どこか具合が悪いのかも、すぐに分かる。
村人たちは、はじめは半信半疑だったが、次々と当たる彼女の“見立て”に舌を巻いた。
「ティナちゃんのおかげで、今年の野菜は、格別だ!」
村人たちが、口々にティナを褒めそやす。
その手放しの賞賛に、ティナは、一瞬戸惑い——それから、くしゃっと、顔を歪めた。
喜びと、信じられなさと、長年の孤独が解けていく安堵が、いちどきに込み上げた、そんな表情だった。
気味悪がられるのではなく、感謝される。
蔑まれるのではなく、必要とされる。
少女が、生まれて初めて、味わう喜びだった。
やがて迎えた収穫の時。
ティナの声に導かれて世話をした畑は、例年にない出来だった。
その瑞々しい野菜で、料理をこしらえる。
甘みの濃いトマト。みずみずしい葉物。
それらを、シンプルに素材の味を活かして仕立てると——ひと口で、誰もが笑顔になる、滋味あふれる一皿になった。
「……わたしの力で、こんなにおいしい野菜が」
ティナが、自分の聞いた声で育った野菜の味に、しみじみと目を細めた。
「役に立てたんだ。わたし」
「ええ。立派に」
わたくしは頷いた。
わたくしの舌と、ティナの水鏡。二つの力が重なれば、きっと、もっと多くの命を笑顔にできる。
同志と力を合わせるとは、こういうことなのだと、改めて実感した。
その夜。わたくしは、アルヴィスと二人で語り合った。
「ティナを、引き取ってよかった」
アルヴィスが、静かに言った。
「あの子は、いい子だ。——それに、お前の言うとおり、あの力は、本物だな」
「ええ」
と頷いた。
「水鏡で、生き物の声を聞く。きっと、あの子も、原初の神が遺した“世界の声を聞く者”の、一人です。——わたくしと、同じ系譜の」
地図に光った、白い光。その一つが、今、ヴァルドに迎えられた。
バラバラだった同志が、ひとつ、ひとつ繋がっていく。その手応えが、確かにあった。
そして、ふと、ひとつの予感が胸をよぎった。
ティナの水鏡は、生き物の声を映すだけではないのかもしれない。
——もし、あの力が、もっと遠くの“声”まで捉えられるなら。
地図に灯る、他の白い光。まだ見ぬ同志たちの居場所や、その窮地さえも、映し出せるのではないか。
わたくしの舌が神の声を聞き、ティナの水鏡が同志を探す。二つの力が、互いを補い合う。
——そうなれば、仲間を集める旅は、ぐっと確かなものになる。
まだ、ただの予感にすぎない。
けれど、その可能性は、わたくしの胸を温かく高鳴らせた。
「いつか、あの子にも、本当のことを話さなければ」
窓の外の星空を、見上げた。
「世界の真実を。神の舌の使命を。——でも、今は、まだ。あの子には、まず、普通の女の子としての幸せを知ってほしいんです」
長く奪われていた、子どもらしい日々を。
あたたかい食卓と、優しい人々の中で。——それを、取り戻してから。
「ああ。それでいい」
アルヴィスが、優しく頷いた。
ヴァルドに、また一人、新しい家族が増えた。
痩せた辺境だったこの地は、今や、傷ついた者が安らげる温かな場所に、なっていた。
飢えた神を救い、飢えた土地を実らせ、そして、孤独な少女の凍えた心まで、溶かしていく。
すべては、ひと皿の料理から、始まった。
胸元の、五つの珠が穏やかに光っていた。
味、潤い、水、火、風。
そして、これから出会うであろう、まだ見ぬ同志たち。
物語は、神を救う旅から、仲間を集める旅へと。
——少しずつ、その姿を広げはじめていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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