第83話 歌い手の系譜
風が鎮まった断崖の国で、わたくしたちは数日を過ごした。
人々は、見違えるように活気を取り戻していた。
吹き飛ばされた屋根を葺き直し、なぎ倒された段々畑に新たな種を蒔く。
風は、もう敵ではない。
穏やかな恵みの風が、人々の作業を優しく後押ししていた。
わたくしはその合間に、長から“風の歌い手”について、さらに詳しく聞いていた。
「歌い手は、特別な力を持って生まれたのですか」
「ああ」
長は頷いた。
「風の声を聞き取る、特別な耳。それは、血筋に受け継がれる稀な才だった。——もっとも、ただの才ではなかったと、言い伝えにはある」
「と、言いますと?」
長は、声を潜めた。
「歌い手は……世が乱れ、風が荒ぶるとき、決まって現れたのだという。まるで、世界が必要とするときに遣わされるかのように」
その言葉に、はっとした。
世界が必要とするときに、遣わされる。
——それは、初代辺境伯の覚え書きにあった、あの一文と同じだ。
『神の舌は、ひとりにあらず。時を経て、世が滅びに傾くとき、再び現れる』。
風の歌い手。神の舌。
——呼び名は違う。土地も違う。
けれど、その本質はまったく同じだった。
神の声を聞き、人と神を繋ぐ者。そして、世界が危機に瀕したときに現れる者。
(……やっぱり)
確信が深まっていく。
わたくしの《美食家の舌》も、風の歌い手も。
世界の各地に、それぞれの形で「神と人を繋ぐ者」が配されていた。
原初の神が眠りにつくとき、きっと、最後の希望として、各地に遺していったのだ。
世界が滅びに傾いたとき、それを押しとどめるための要として。
「長。——その歌い手たちは、互いに、繋がっていたのでしょうか」
長は、しばらく考え込んでから言った。
「言い伝えに、こんな一節がある。——『遠き地の、声を聞く者たちよ。いつか、ひとつに集い、世界の歌を取り戻せ』、と」
ひとつに集い。世界の歌を取り戻せ。
その言葉が、胸に深く響いた。
バラバラに各地に配された、神と人を繋ぐ者たち。
彼らが、いつか、ひとつに集って世界の理を修復する。
——それこそが、原初の神の絶望を解く、本当の道なのかもしれない。
「……わたくしは、ひとりではないのかもしれません」
思わず、呟いていた。
これまで、自分だけがこの重い使命を背負っていると、思っていた。
けれど——もしかしたら、世界のどこかに、同じように神の声を聞き、神を救おうとしている者が、いるのかもしれない。
その考えは、わたくしの心を温かく照らした。
「面白い話だな」
いつのまにか隣に来ていたアルヴィスが、言った。
「お前と同じ力を持つ者が、他にもいる。——いつか、その者たちと出会うかもしれん、ということか」
「ええ。——もし、本当にそうなら」
五つの珠を、見つめた。
「心強いです。この、途方もない戦いも。ひとりではなく、みんなで立ち向かえるなら」
胸元の珠が、応えるように淡く光った。
味、潤い、水、火、風。五柱の神々の加護。
そして、いつか出会うかもしれない、同じ志を持つ、仲間たち。
孤独な戦いだと思っていた。
けれど、違った。
救ってきた神々が、隣にいるアルヴィスが、そして、まだ見ぬ同志たちが。
——わたくしを、支えてくれている。
その夜。宿で、五つの珠を並べ、地図を呼び出した。
味、潤い、水、火、風。
五つの光に応えて、世界の像が、これまでで最も鮮明に浮かび上がる。
救った神々の光点は穏やかに灯り、残る赤黒い光点も、前よりはっきりと見えた。
そして——わたくしは、初めて、あることに気づいた。
地図のところどころに、神々の光点とは違う、小さな白い光が、ぽつ、ぽつと灯っているのだ。
これまでは、神々の赤黒い光にまぎれて、見えていなかった。
けれど、五柱を救い、地図が澄んだ今。その、ささやかな白い光が、確かに見て取れた。
「アルヴィス様。——この白い光は」
「人、か?」
アルヴィスが目を凝らした。
「……たぶん」
息を、呑んだ。
「神の声を聞く者。風の歌い手のような——わたくしと同じ力を持つ、人たちのしるしかもしれません」
白い光は、数えるほどしかなかった。
けれど、確かに、世界に点在している。
バラバラに、それぞれの土地で、それぞれの神と向き合っているのだろう。
長の言った、『遠き地の、声を聞く者たち』。
——それは、ただの言い伝えでは、なかったのだ。
(……いつか、必ず。あなたたちに、会いに行きます)
まだ見ぬ同志たちへ、わたくしは、心の中で、そっと、語りかけた。
断崖の国を、発つ日。
長と人々が、総出で見送ってくれた。
長は、わたくしに、一枚の古い羊皮紙を手渡した。
「我が民に伝わる、風の歌のすべてを記したものだ。——歌い手であった、お前さんなら、きっと役立てられるだろう。持っていってくれ」
それは、この国の、何より大切な宝のはず。
深く頭を下げて、受け取った。
風の歌い手の知恵。それは、いつか他の神を救うときにも、きっと力になる。
「ありがとうございます。——この歌を、決して絶やしません」
穏やかな風が、別れを惜しむように、わたくしたちの背を押した。
五柱目の神を救い、新たな手がかりを得て。
わたくしたちは、ふたたびヴァルドへの帰路に就いた。
世界の真実の、さらに奥へ。そして、いつか出会うかもしれない、同じ志の者たちのもとへ。
——物語は、また一歩、進んでいく。
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