第82話 風の歌
どれほど、聞き続けただろう。
風の神の、何百年分の独白を、わたくしはひとつ残らず受け止めた。
寂しさも、怒りも、諦めも、すがるような希望も。
——すべてを聞き終えたとき、神の声は、憑き物が落ちたように静かになっていた。
——汝ハ、本当ニ……最後マデ、聞イテクレタ。
「ええ」
わたくしは頷いた。
「あなたの声は、ちゃんと届きました。もう、独りじゃありません」
——ドレホド、コノ時ヲ待ッタロウ。タダ、聞イテモラウ。タッタ、ソレダケノコトヲ。
風が、すすり泣くように震えた。
何百年もの孤独が、ようやく終わったのだ。
けれど、わたくしは知っていた。これで、終わりではない。
聞くことは、最初の一歩。
次は——断たれた架け橋を、もう一度結び直すこと。
神の声を人へ、人の想いを神へ。
その循環を取り戻さねば、また同じことが、繰り返される。
「風の神様。——あなたの声を、わたくしが人々に伝えます。そして、人々の想いを、あなたに届けます」
捧げた供物に、手を添えた。
風干しの実り。風の恵みが生んだ、味。
「この供物を、召し上がってください。あなたの風が育てた、恵み。——天空の民が、あなたへの感謝を込めて、分けてくれたものです」
風が、ゆっくりと供物を包んだ。
そして——その“味”を確かめるように震える。
——コレハ……我ノ風ガ運ンダ、実リノ味。人ガ、我ニ、感謝ヲ……?
「ええ」
とわたくしは微笑んだ。
「人々は、あなたを忘れていただけ。憎んでいたわけでも、見捨てていたわけでもありません。ただ——あなたの声を聞く術を、失っていただけなんです」
そのとき。風に乗って、麓からかすかな“声”が届いてきた。
天空の民が——岩屋の人々が、歌っていた。
長を中心に、わずかに残った風の歌の、断片を。
途切れ、かすれ、それでも必死に。
何百年も忘れていた、風の主への、感謝の歌を。
——歌ってくれている。あの約束を、果たして。
風が和らぎはじめた、その兆しを、麓の人々も、感じ取ったのだ。
その歌が、風に乗って、神のもとへと昇ってくる。
——歌ダ。風ノ、歌ダ。何百年、忘レテイタ……人ガ、我ニ、歌ッテクレテイル……!
風の神の想念が、歓喜に打ち震えた。
それは、もう孤独の絶叫ではなかった。応えてもらえた、喜びの震えだった。
「聞こえますか。——人々は、あなたを想っています。あなたの恵みに感謝しています。その想いが、ちゃんとここに届いているでしょう?」
——アア。……届イテイル。確カニ。人ノ、想イガ。
その瞬間。荒れ狂っていた嵐が——ふっと凪いだ。
何ヶ月も休みなく吹き荒れていた風が、嘘のように穏やかになっていく。
やわらかなそよ風が、断崖を撫でた。
それは、人々を慈しむ優しい風。かつての、恵みの風だった。
歌い処の岩棚に立つわたくしの髪を、その風が優しく揺らす。
——礼ヲ言ウ。風ノ、新タナ歌イ手ヨ。汝ガ、聞イテクレタオカゲデ。我ハ、思イ出シタ。人ヲ慈シム、本来ノ我ヲ。
風の神の声は、もうあたたかかった。
深い孤独から解き放たれた、安らぎに満ちていた。
——コレカラハ、忘レラレテモ、嘆クマイ。汝ガ、繋ギ直シテクレタ。人ト、我ノ絆ヲ。コノ風ガアルカギリ、人ノ想イハ、巡リ続ケル。
そして、風の神は、その身からひとひらの光をこぼした。
澄んだ、空色の珠。
五つ目の加護の証が、わたくしの手のひらへと、舞い降りてきた。
断崖を、見下ろす。
引き裂かれていた集落に、穏やかな風が吹き渡っていた。
岩屋から、おそるおそる人々が出てくる。
何ヶ月ぶりかの、凪いだ空気。その頬を撫でる優しい風に、人々は涙を流していた。
「風が……風が、鎮まったぞ!」
「奥方様が……あの方が、風の主を鎮めてくださった……!」
歓喜の声が、断崖にこだまする。
今度は、その声をかき消す風はもうない。
人々の喜びの声が、まっすぐに空へと昇っていく。
風に運ばれて。人の想いと、神の想いが、ふたび巡りはじめた。
「……繋がった」
わたくしは、空色の珠を握りしめた。
五柱目の神を救えた。
断たれていた、人と神の架け橋を——もう一度、結び直せたのだ。
穏やかな風が、わたくしの頬を撫でていく。まるで、ありがとう、とでも言うように。
歌い処を下りると、アルヴィスが駆け寄ってきた。
風が鎮まると同時に、岩陰から飛び出してきたのだろう。
その顔に、隠しきれない安堵が滲んでいた。
彼は、わたくしの肩を強く抱き寄せた。
「……無事か。声が聞こえないあいだ、生きた心地がしなかった」
「ええ。——ちゃんと、戻ってきました」
彼の腕の中で、微笑んだ。
「今度の戦いは、剣も料理も使いませんでした。ただ、聞くだけ。——でも、いちばん、苦しかったかもしれません」
何百年分の孤独を、まるごと受け止める。
それは、想像していたよりも、ずっと重い戦いだった。
気を抜けば、神の絶望に、呑まれてしまいそうだった。
「お前は、よくやった」
アルヴィスは、わたくしの髪をそっと撫でた。
「誰の声も届かなかった神に、お前の声が届いた。——お前にしか、できないことだ」
その言葉に、張りつめていたものがほどけていく。
優しい風の中で、しばらく、彼の腕の温もりに身を預けていた。
その夜。断崖の集落は、ささやかな宴に沸いた。
風が鎮まり、久しぶりに安心して火を熾せるようになった人々のために、腕をふるった。
風干しの実りを使った、滋味深い煮込み。
それを、回復した竈の火であたたかく仕立てる。
風に晒された実りは、余分な水分を抜かれ、味がぎゅっと凝縮されていた。
前世で言う、ドライトマトや干し肉の知恵。
それを、ヴァルドから持参した出汁と合わせると——煮込むほどに、深い旨みが汁へと溶け出していく。
《美食家の舌》が、その味を捉えた。
風が奪った水分のぶんだけ、濃く実った甘み。
外で長く陽と風に晒された、滋味の奥行き。
——荒ぶる嵐ではなく、優しい風が育てた恵みの味だった。
「うまい……! 何ヶ月ぶりだろう、こんなあたたかい飯は」
長が、涙ながらに頬張った。
「奥方様。あなたは、風の主だけでなく……わしらの心まで、救ってくださった」
人々の笑い声が、夜の断崖に響く。
その声を、もうかき消す風はない。
むしろ、優しい夜風が、その笑い声を星空へと運んでいく。
風の神も、きっと、それを嬉そうに聞いているのだろう。
人と神の絆が、また、ひとつ結び直された。
それが、世界の理を少しずつ修復していく。
——“あのお方”の眠りを、安らかにするために。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




