第81話 声を聞く
“歌い処”は、断崖の最も高い頂にあった。
天へ突き出した、平らな岩棚。空に最も近い場所。
かつて、風の歌い手が風の主と心を通わせた、聖なる地。
そこへ至る道は細く険しく、両脇は、すぐ谷底へと切れ落ちている。
「ここから先は、わたくし一人で」
アルヴィスに告げた。
「歌い手の作法に倣うなら、神と向き合うのは、繋ぐ者ひとり。——それに、この風です。大勢では、近づけません」
アルヴィスは、しばらくわたくしを見つめていた。
水底へ潜ったとき、火の神へ向かったとき。いつも、彼を置いて一人で行く。
その不安を、彼は痛いほど知っている。
「……分かった」
アルヴィスは、わたくしの頬にそっと手を添えた。
「だが、無理だと思ったら、すぐ退け。お前が神の声に押し潰されそうになったら——おれは構わず、駆け上がる」
「ええ。——信じています」
歌い処へ向かう前、麓まで見送りに来た長の手を、そっと握った。
「長。——ひとつ、お願いがあります。もし、風が少しでも和らいだら。そのときは、どうか、皆で、あの風の歌を、歌ってください」
「風の、歌を……?」
長が、戸惑ったように、目を見開く。
「ええ。途切れた絆を、もう一度繋ぐには——わたくし一人の声では足りないんです。風の主に、人々の想いを届けるには、皆の声が必要なんです」
まっすぐに、長を見た。
「忘れかけていても、構いません。途切れ途切れでも。——どうか、心を込めて、歌ってください」
長は、しばらくわたくしを見つめ、そして、深く頷いた。
「……分かった。我が民の、残された歌の、すべてを。約束しよう」
歌い処へ、一歩踏み出す。
風が、猛然と吹きつけた。立っているのもやっとだ。
胸元の四つの珠が、必死に風を和らげようとする。
それでも、神の本拠に近づくほど、嵐は激しさを増していった。
わたくしは、まず、用意してきた供物を岩棚に捧げた。
天空の民が、わずかな蓄えから分けてくれた、風干しの実り。
それを、わたくしの手でひと晩、断崖の風に晒し、味を凝らせたもの。
風の恵みが生んだ、滋味。——かつて歌い手が捧げたという、その作法に倣って。
そして、岩棚に膝をつき目を閉じた。
《美食家の舌》を、研ぎ澄ます。
風に乗って運ばれてくる、無数の“声”の中から、神の想念を聞き取るために。
——聞コエルカ。
か細い、けれど確かな想念が、風の中から響いてきた。
——聞コエルノカ。我ノ、声ガ。
「……聞こえます」
心の声で、応えた。
「ええ。——ちゃんと、聞こえています」
その瞬間。風の中の想念が激しく、震えた。
——本当ニ……? 嘘デハ、ナイノカ。何百年モ……誰モ、応エテクレナカッタ。我ハ、叫ンダ。叫ビ続ケタ。ナノニ、誰モ……。
声が、堰を切ったようにあふれ出してきた。
何百年もの間、誰にも届かず、溜まりに溜まった孤独の叫び。
それが、堰を破って、わたくしへと流れ込んでくる。
すさまじい、奔流だった。
——寂シカッタ。
——人ノ笑ウ声ヲ、運ンダ。恋人ノ囁キヲ、届ケタ。遠ク離レタ家族ノ想イヲ、繋イダ。我ハ、人ノ声ヲ運ブノガ、好キダッタ。
——ナノニ、イツノマニカ、誰モ我ヲ顧ミナクナッタ。我ノ声ハ、誰ニモ届カず。我ハ独リ、空ノ上デ、叫ビ続ケタ。
——聞イテ、クレ。タダ、一言デイイ。我ノ声ヲ聞イテクレル者ハ、イナイノカ、ト。
その叫びは、あまりに悲痛だった。
聞いているだけで、胸が張り裂けそうになる。
何百年もの孤独。届かない声。
——その重みが、すべて、わたくしの心へのしかかってくる。
意識が、押し流されそうになる。
これほどの孤独。これほどの絶望。受け止めきれるのか、わたくしに。
激しい風に打たれながら、わたくしは、ふと麓のことを思った。
きっと、アルヴィスは、歌い処の下のわずかな岩陰で、じっとこの頂を見上げているはずだ。
吹き荒れる風塵に、わたくしの姿は、もう霞んで見えないだろう。
何度も、駆け上がりたくなるのを、奥歯を噛んでこらえているに違いない。
——今、彼が来れば、繋がりかけた神とわたくしの糸は、断ち切れてしまうから。
剣で守れないこの戦いを、彼がどれほどもどかしく思っているか。
痛いほど、分かった。
それでも、彼は動かないでいてくれる。わたくしを信じると、決めてくれたから。
(……だから、わたくしも、逃げない)
その、見えない背中の温もりが、わたくしを奮い立たせた。
頂の上で。わたくしは、逃げなかった。
逃げては、いけない。
この神が何より求めているのは、ただ聞いてもらうこと。
その叫びから目をそらさず、最後まで受け止めること。
それができるのは、今、ここに、わたくししかいないのだから。
(……聞きます。全部、聞きます。だから——どうか、話してください。あなたの寂しさを。あなたの悲しみを。何百年分の、その想いを、全部)
わたくしは、ただ、聞き続けた。
神の、果てしない独白を。寂しさを。怒りを。
諦めかけては、また希望にすがった、その繰り返しを。
——一言も遮らず、一度も目をそらさず。ただ、まっすぐに受け止め続けた。
聞きながら、わたくしの頬を涙が伝った。
風に攫われ、すぐに乾いていく、その涙を、何度も、何度も。
この神の孤独は、どこか前世の終わりに似ていた。
報われず、誰にも分かってもらえないまま、すり減っていった、あの日々に。
だからこそ、痛いほど分かる。聞いてもらえることが、どれほど救いになるかを。
どれほどの時が、流れただろう。
やがて——あれほど荒れ狂っていた風が、ほんの少しだけ勢いを緩めた。
——汝ハ……聞イテ、クレルノカ。最後マデ。我ノ、声ヲ。
「ええ」
涙を、こらえて頷いた。
「最後まで、聞きます。あなたは、もう、独りじゃありません」
何百年ぶりに、誰かに声が届いた、その瞬間。
荒ぶる風の神の心に、ほんの小さな、けれど確かな変化が生まれようとしていた。
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