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【7/5 7AMに最終話投稿予定】追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第9章 風の歌集う声

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第81話 声を聞く

“歌い処”は、断崖の最も高い頂にあった。


天へ突き出した、平らな岩棚。空に最も近い場所。

かつて、風の歌い手が風の主と心を通わせた、聖なる地。


そこへ至る道は細く険しく、両脇は、すぐ谷底へと切れ落ちている。


「ここから先は、わたくし一人で」


アルヴィスに告げた。


「歌い手の作法に倣うなら、神と向き合うのは、繋ぐ者ひとり。——それに、この風です。大勢では、近づけません」


アルヴィスは、しばらくわたくしを見つめていた。


水底へ潜ったとき、火の神へ向かったとき。いつも、彼を置いて一人で行く。

その不安を、彼は痛いほど知っている。


「……分かった」

アルヴィスは、わたくしの頬にそっと手を添えた。

「だが、無理だと思ったら、すぐ退け。お前が神の声に押し潰されそうになったら——おれは構わず、駆け上がる」


「ええ。——信じています」


歌い処へ向かう前、麓まで見送りに来た長の手を、そっと握った。


「長。——ひとつ、お願いがあります。もし、風が少しでも和らいだら。そのときは、どうか、皆で、あの風の歌を、歌ってください」


「風の、歌を……?」

長が、戸惑ったように、目を見開く。


「ええ。途切れた絆を、もう一度繋ぐには——わたくし一人の声では足りないんです。風の主に、人々の想いを届けるには、皆の声が必要なんです」

まっすぐに、長を見た。

「忘れかけていても、構いません。途切れ途切れでも。——どうか、心を込めて、歌ってください」


長は、しばらくわたくしを見つめ、そして、深く頷いた。


「……分かった。我が民の、残された歌の、すべてを。約束しよう」


歌い処へ、一歩踏み出す。


風が、猛然と吹きつけた。立っているのもやっとだ。

胸元の四つの珠が、必死に風を和らげようとする。

それでも、神の本拠に近づくほど、嵐は激しさを増していった。


わたくしは、まず、用意してきた供物を岩棚に捧げた。


天空の民が、わずかな蓄えから分けてくれた、風干しの実り。

それを、わたくしの手でひと晩、断崖の風に晒し、味を凝らせたもの。


風の恵みが生んだ、滋味。——かつて歌い手が捧げたという、その作法に倣って。


そして、岩棚に膝をつき目を閉じた。


《美食家の舌》を、研ぎ澄ます。

風に乗って運ばれてくる、無数の“声”の中から、神の想念を聞き取るために。


——聞コエルカ。


か細い、けれど確かな想念が、風の中から響いてきた。


——聞コエルノカ。我ノ、声ガ。


「……聞こえます」

心の声で、応えた。

「ええ。——ちゃんと、聞こえています」


その瞬間。風の中の想念が激しく、震えた。


——本当ニ……? 嘘デハ、ナイノカ。何百年モ……誰モ、応エテクレナカッタ。我ハ、叫ンダ。叫ビ続ケタ。ナノニ、誰モ……。


声が、堰を切ったようにあふれ出してきた。

何百年もの間、誰にも届かず、溜まりに溜まった孤独の叫び。


それが、堰を破って、わたくしへと流れ込んでくる。

すさまじい、奔流だった。


——寂シカッタ。


——人ノ笑ウ声ヲ、運ンダ。恋人ノ囁キヲ、届ケタ。遠ク離レタ家族ノ想イヲ、繋イダ。我ハ、人ノ声ヲ運ブノガ、好キダッタ。


——ナノニ、イツノマニカ、誰モ我ヲ顧ミナクナッタ。我ノ声ハ、誰ニモ届カず。我ハ独リ、空ノ上デ、叫ビ続ケタ。


——聞イテ、クレ。タダ、一言デイイ。我ノ声ヲ聞イテクレル者ハ、イナイノカ、ト。


その叫びは、あまりに悲痛だった。

聞いているだけで、胸が張り裂けそうになる。


何百年もの孤独。届かない声。

——その重みが、すべて、わたくしの心へのしかかってくる。


意識が、押し流されそうになる。

これほどの孤独。これほどの絶望。受け止めきれるのか、わたくしに。


激しい風に打たれながら、わたくしは、ふと麓のことを思った。


きっと、アルヴィスは、歌い処の下のわずかな岩陰で、じっとこの頂を見上げているはずだ。

吹き荒れる風塵に、わたくしの姿は、もう霞んで見えないだろう。


何度も、駆け上がりたくなるのを、奥歯を噛んでこらえているに違いない。

——今、彼が来れば、繋がりかけた神とわたくしの糸は、断ち切れてしまうから。


剣で守れないこの戦いを、彼がどれほどもどかしく思っているか。

痛いほど、分かった。


それでも、彼は動かないでいてくれる。わたくしを信じると、決めてくれたから。


(……だから、わたくしも、逃げない)


その、見えない背中の温もりが、わたくしを奮い立たせた。


頂の上で。わたくしは、逃げなかった。

逃げては、いけない。


この神が何より求めているのは、ただ聞いてもらうこと。

その叫びから目をそらさず、最後まで受け止めること。


それができるのは、今、ここに、わたくししかいないのだから。


(……聞きます。全部、聞きます。だから——どうか、話してください。あなたの寂しさを。あなたの悲しみを。何百年分の、その想いを、全部)


わたくしは、ただ、聞き続けた。


神の、果てしない独白を。寂しさを。怒りを。

諦めかけては、また希望にすがった、その繰り返しを。

——一言も遮らず、一度も目をそらさず。ただ、まっすぐに受け止め続けた。


聞きながら、わたくしの頬を涙が伝った。

風に攫われ、すぐに乾いていく、その涙を、何度も、何度も。


この神の孤独は、どこか前世の終わりに似ていた。

報われず、誰にも分かってもらえないまま、すり減っていった、あの日々に。

だからこそ、痛いほど分かる。聞いてもらえることが、どれほど救いになるかを。


どれほどの時が、流れただろう。


やがて——あれほど荒れ狂っていた風が、ほんの少しだけ勢いを緩めた。


——汝ハ……聞イテ、クレルノカ。最後マデ。我ノ、声ヲ。


「ええ」

涙を、こらえて頷いた。

「最後まで、聞きます。あなたは、もう、独りじゃありません」


何百年ぶりに、誰かに声が届いた、その瞬間。

荒ぶる風の神の心に、ほんの小さな、けれど確かな変化が生まれようとしていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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