第80話 風の歌い手
岩屋の奥。
風の音が絶え間なく響く中で、長は、ぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「遠い昔のことだ。我が民は、“風の歌い手”をいただいておった」
「風の、歌い手?」
「ああ」
長は、深く皺の刻まれた手を組んだ。
「風の主の声を聞き、その想いを歌にして人々へ伝える者。端的に言えば、人々の感謝や祈りを歌に乗せて、風の主へ返す者。——風の歌い手は、人と風の主を繋ぐ架け橋だったのだ」
その言葉に、わたくしは息を呑んだ。
風の主の声を聞き、人と繋ぐ者。
——それは、わたくしの《美食家の舌》と同じ役割。
神々の声を聞き取る力。風の歌い手。
土地が違えど、神と人を繋ぐ者は、世界のあちこちにいたのだ。
「風の主は、その歌を何より喜ばれた。歌い手の歌に応えて、穏やかな恵みの風を吹かせてくださった。豊かな実りも、心地よい季節も。すべて、風の主と歌い手の繋がりがもたらした賜物だ」
「……その歌い手は。今は」
わたくしが尋ねると、長の顔が深い悲しみに、沈んだ。
「絶えた。——もう、何代も前にな」
風の音が、ひときわ強くなった。
まるで、その話を嫌がるかのように。
「歌い手の血筋は細り、やがて絶えた。残された我々は、歌を忘れ、ただ風の恵みを当たり前のように、享受するだけになった。風の主が、何を語りかけても——もう、誰も聞き取れなくなったのだ」
長の声が震えた。
「考えても、みろ。……ずっと語りかけているのに、誰にもその声が届かない。来る日も、来る日も。何百年も。——風の主は、ずっと独りで叫び続けていたのだ。誰か聞いてくれ、と。なのに、我々は何も応えなかった」
胸が、締めつけられた。
——そうだったのか。
水の神は諦めて、心を閉ざした。
けれど、この風の神は違う。諦めなかった。
何百年も、叫び続けた。「聞いてくれ」と。
届かないと知りながら、なお、語りかけ続けた。
それは、希望を捨てられないがゆえの苦しみだった。
そして、ついに——耐えきれなくなったのだ。
誰にも届かない声を叫び続ける、その孤独に。
だから、暴れている。
声を嵐に変えて。「これでも聞かないのか」「これでも気づかないのか」と。
荒れ狂う風は、神の悲痛な絶叫だった。
(……あなたは、ずっと、聞いてほしかったんですね)
わたくしは、確信した。
この神に料理を捧げるだけでは、足りない。
必要なのは——その声を、聞くこと。
何百年も誰にも届かなかった、その叫びを。ちゃんと、受け止めること。
これまでとは、逆だ。
これまでは、わたくしが料理で神に「与えて」きた。
けれど今度は、まず、神から「受け取る」ことから始めなければ。
長い長い独白を、ただ聞く。
それが、この神を救う、最初の一歩だった。
「長。——わたくしには、風の主の声が聞こえます」
そう告げると、長は弾かれたように、顔を上げた。
「な……なんだと?」
「わたくしの授かった力は、《美食家の舌》。食べ物を通して、世界の声を聞く力です。——きっと、風の歌い手と同じ。わたくしになら、風の主の声を聞き取れます」
長の、虚ろだった目に、みるみる光が満ちていく。
何百年も誰も聞けなかった、風の主の声。
それを聞ける者が、今、目の前に現れた。
それは、この絶望の国にとって、まさに奇跡だった。
「ほ、本当か……! では、お前さんが、新たな風の歌い手に……!」
「ええ。——わたくしが、風の主の声を聞き、その想いを、あなたたちに伝えます。
そして、あなたたちの感謝を、もう一度、風の主へ届けます。
——途切れてしまった、その架け橋を、もう一度、繋ぎ直すんです」
「長。風の歌い手は、どうやって風の主と、心を通わせていたのですか」
わたくしの問いに、長は記憶を手繰るように、目を閉じた。
「……断崖の頂に、“歌い処”と呼ばれる聖なる岩棚があった。歌い手は、そこで風の主への供物を捧げ、歌を歌った。
供物は——確か、その季節のいちばん滋味深い実りを、風に晒して干したもの、だったか。風の通り道で、ゆっくりと味を凝らせた、特別な食べ物だ」
その言葉に、わたくしの中で何かが繋がった。
風に晒して味を凝らせた食べ物。
——それは、まさに料理だ。風を使った、保存と熟成の技。
前世でも、干物や、風干しの肉や、天日の野菜に、その知恵はあった。
風の恵みが生んだ、滋味。それを供物として、風の主は喜んだ。
「……分かりました。声を聞くだけでは、ありません」
確信が、深まる。
「風の主の声を、わたくしの舌で聞き取る。そして、風が生んだ恵みの料理を捧げる。——聞くことと、与えること。その両方で、断たれた絆を、結び直せるはずです」
長の歌い手の知恵と、わたくしの料理。
二つが、ひとつに溶け合った瞬間だった。
風は、なおも吹き荒れている。
神の孤独な絶叫は、まだ止まない。
けれど、もう、独りではない。
何百年ぶりに、その声を聞こうとする者が、現れたのだから。
「待っていてください、風の神様。——今、あなたの声を、聞きに行きます」
わたくしは、嵐の吹きすさぶ断崖の空を、まっすぐに見上げた。
その瞳の奥に、もう、迷いはなかった。
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