第79話 断崖の国
西への旅は長かった。
平野を越え、森を抜け、川を渡り。
進むほどに、土地は高く、険しくなっていく。
やがて行く手に、見上げるほどの大山脈が立ちはだかった。
雲を貫く、峨々たる峰々。
その、はるか高みに、目指す国はあるという。
「……あんなところに、人が住んでいるのですか」
馬車を降り、徒歩で山道を登りながら、わたくしは息を呑んだ。
「天空の民、と呼ばれるだけのことはあるな」
アルヴィスも、峻険な岩壁を見上げた。
「これは……ノルドの雪山とは、また違う険しさだ」
道案内は、麓の村で雇った、山慣れた青年だった。
彼は慣れた足取りで岩場を進みながら、言った。
「天空の民は、断崖に張りついて暮らす、誇り高い人々です。風を読み、風とともに生きてきた。——けれど、その風が、今は」
登るほどに、風が強くなった。
ただの風ではない。鋭く、荒々しく、絶え間なく吹きつける。
岩肌にしがみつくように進まなければ、体ごと谷底へ吹き飛ばされそうだった。
胸元の四つの珠が淡い光で、わたくしたちの周りの風をわずかに和らげてくれる。
それでも、息をするのもやっとだった。
「これが……風の神の、暴走」
声も、風にちぎられて、すぐにかき消される。
すぐ隣のアルヴィスに話しかけるのにも、声を張り上げねばならなかった。
そのときだった。
ひときわ強い突風が、横ざまに吹きつけた。
道案内の青年の体が、ふわりと宙に浮く。
断崖の縁から、足が離れた。
「危ない!」
アルヴィスの手が、間一髪、青年の腕を掴んだ。
けれど、風は容赦なく、二人を引きずろうとする。
わたくしは、とっさに四つの珠を握りしめ、念じた。
——どうか、力を。風を和らげて。
珠が、まばゆく輝く。ことに、火の神の珠が。
荒れ狂う気流の中に、ふっと上昇する熱の柱が生まれ、吹き下ろす風をわずかに押し返した。
その隙に、アルヴィスが青年を岩棚へと引き戻す。
「……助かった。すまねえ」
青年が、青ざめた顔で、礼を言った。
火と風は、響き合う。
救ってきた神の力が、こんなところで命を繋いだ。
——珠は、ただの記念ではない。
確かに、わたくしたちとともに戦ってくれている。
ようやく、断崖の国へたどり着いたとき。
わたくしは、その惨状に言葉を失った。
断崖に張りつくように築かれた、石造りの集落。
それが、無残に引き裂かれていた。
吹き飛ばされた屋根。なぎ倒された段々畑。
岩肌にしがみつくわずかな作物も、根こそぎ嵐に毟り取られている。
人々は、洞窟のような岩屋に身を寄せ合い、吹きすさぶ風に、ただ耐えていた。
「よそ者か……」
痩せ細った、集落の長が、力なく顔を上げた。
「悪いことは言わん。すぐに立ち去れ。この地は、もう終わりだ。風の主のお怒りが解けぬかぎり……わしらは皆、吹き散らされて死ぬ」
その絶望は、これまで巡ってきたどの土地よりも、深いように見えた。
風は休む間もなく吹き荒れ、人々から、声も、気力も、希望も奪い去っていた。
「諦めるのは、まだ早いです」
長の前に膝をつき、風に負けじと声を張った。
「わたくしは、その風の主を——鎮めに来ました」
長は、力なく首を振った。
「無駄だ。風の主は、何を捧げても聞き入れぬ。祈っても、供物を捧げても、嵐は強まるばかり。——もう、何ヶ月も、こうだ」
「いつから、こうなったのですか」
わたくしは尋ねた。
「風が、荒れはじめたのは」
長は、虚ろな目で宙を見た。
「……半年ほど前。最初は、ほんの気まぐれな突風だった。それが、日に日にひどくなって。今では、声も届かぬ、この有様だ」
その声が震えた。
「わしらは、風とともに生きてきた。風の歌を聞き、風に乗せて、想いを交わしてきた。——なのに、その風が今は、わしらの声をことごとくかき消す。家族の名を呼んでも、隣にすら届かんのだ」
その言葉に、はっとした。
声をかき消す、風。
——やはり。胸に芽生えていた予感が、確信に変わっていく。
この風の神の苦しみは、きっと“声”に関わっている。
風は、声を運ぶもの。なのに、その風が、人の声を断っている。
——まるで、誰の声も、もう聞きたくない、とでもいうように。
「……ひとつ、伺います」
長の目を、まっすぐに見た。
「この国には、風の主にまつわる言い伝えが、ありますか。昔、どんなふうに、風の神を敬っていたのか。——その手がかりが、知りたいのです」
これまでも、そうだった。
ノルドの眠りの山。サウディスの大砂漠。ミルディアの水底の主。アスタリカの鎮火の儀。
——忘れられた神を鎮める鍵は、いつも、その土地に古くから眠っていた。
長は、しばらくわたくしの顔を見つめていた。
そして、何かを感じ取ったのか、ゆっくりと口を開いた。
「……お前さん。本気の目を、しておるな」
長い諦めに沈んでいた、その瞳に。
ほんのわずか、光が戻った気がした。
「いいだろう。……聞かせてやる。我が民に伝わる、“風の歌い手”の、言い伝えを」
風の吹きすさぶ岩屋の奥で。
忘れられた風の神を巡る、新たな物語が、いま、静かに動き出そうとしていた。
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