第74話 火のごちそう
背後で剣戟の音が響く中、わたくしは灼熱の谷の最奥へ駆けた。
煮えたぎる溶岩。渦巻く火柱。
その中心で、火の神はなおも苦悶にのたうっていた。自らの火に焼かれ、止められぬ力に苦しみながら。
「火の神様!」
わたくしは、炎に向かって叫んだ。
「あなたに捧げたいものがあります! どうか、ひと口だけ。——受け取ってください!」
胸元の三つの珠が強く輝き、周りに、熱を和らげる光の盾を張った。
その守りに護られながら、火の恵みを結晶させた一皿を、炎の縁へとそっと差し出した。
——ナンダ……ソノ、匂イハ。
火の神の想念が、揺れた。
立ちのぼる炙り肉の香ばしさ。煮込みの甘い湯気。香木の燻香。
——それは、火が生み出したおいしさの、すべて。
荒れ狂う炎の灼けた匂いとは、まるで違う。優しくあたたかな、火の香りだった。
「これは、あなたの火が生んだ、ごちそうです」
わたくしは、語りかけた。
「あなたの火は、災いなんかじゃありません。——こんなに香ばしく、こんなにあたたかい。人を幸せにする、恵みの火。それが、あなたの本当の姿です」
火の神の炎が、わずかに勢いを緩めた。
差し出された一皿へと、ゆらりと傾く。
——我ノ、火ガ……コレヲ?
「ええ。炙るのも、煮るのも、香りを立てるのも。——ぜんぶ、あなたの火がなければ生まれません。料理人にとって、火は敵じゃない。いちばん大切な、相棒なんです」
そのとき、背後から怒号が聞こえた。
「させるか! その料理を、神に届けさせるな!」
強硬派の兵が一人、アルヴィスたちの防衛線をすり抜け、わたくしへと斬りかかってきた。
神を鎮められては困る者たちの、必死の妨害。
けれど——その刃が届く前に。
「——退け!」
アルヴィスが駆けつけ、その兵を一刀のもとに打ち据えた。
返す刀で、わたくしの前に立ちはだかる。
「セラ、続けろ! ここは通さん!」
「……はい!」
その背後で、苛烈な戦いが繰り広げられているのが、気配で分かった。
激しい金属音。地を蹴る足音。怒号。
——けれど、振り返らなかった。振り返る必要がなかった。
背に感じるのは、わたくしを信じて守してくれる、頼もしい三つの気配。
アルヴィスの、揺るぎない剣。その圧倒的な存在が、敵を一歩も近づけさせない。
だから、目の前の神だけに全神経を注げる。背中は任せた。
わたくしは、わたくしの戦いを——この一皿を、神に届けることだけを考えればいい。
剣戟の嵐の中。それでも、わたくしは火の神から目を離さなかった。
「火の神様! 思い出して! あなたが人に与えてきた、本当のものを!」
火の神の巨大な炎が、ゆっくりとその“顔”を一皿へと近づけた。
そして——揺らめく炎が、料理をふわりと包み込んだ。
燃やすのではなく、慈しむように。
香ばしい炙り肉の、煮込みの甘さの、燻香の——その「味」が、湯気とともに、神の灼熱の神格へ染み渡っていく。
その瞬間。
——アア。
火の神の想念が震えた。荒れ狂う、苦しみの声ではなかった。
それは、深い深い郷愁の、声だった。
——コノ、味……。我ノ火ガ、生NDA……コンナニモ、温カイ、モノ……。思イ出シタ。竈ノ火。人々ガ、我ノ火ヲ囲ミ、肉ヲ焼キ、パンヲ焼キ……笑イ合ッテイタ。アノ、温カナ火。——ソウダ。我ノ火ハ、災イデハナカッタ。人ヲ生カス、火、ダッタ……!
火の神を包んでいた、禍々しい灼熱が——すうっと和らいでいく。
荒れ狂っていた紅蓮の炎が、優しい橙色のあたたかな火へと変わっていった。
竈に灯る、あのなつかしい炎の色へと。
出口を失い、暴走していた火が——ようやく、正しい“行き場”を思い出したのだ。
「……よかった」
わたくしの頬を、汗とも涙ともつかぬものが伝った。
火の神は、もう苦しんではいなかった。
自らの火と和解し、穏やかなぬくもりを取り戻していた。
和らいだ炎の中で、その姿は、まるであたたかな焚き火のそばで微笑む、老いた職人のように見えた。
そして——満たされた火の神は、その身からひとひらの光をこぼした。
橙色に輝く、あたたかな珠。四つ目の加護の証が、わたくしの手のひらへ舞い降りてくる。
手の中で、新たな珠は、胸元の三つの珠と嬉しそうに呼応した。
ノルドの味、サウディスの潤い、ミルディアの水、そしてアスタリカの火。
——救ってきた土地の数だけ、四つの光が、互いを認め合うように淡く明滅する。
雪山も、砂漠も、湖底も、火山も。越えてきた旅路のすべてが、この手の中に集っていた。
まるで、来たるべき大きな戦いに備えるように、その温もりが、握りしめた手にじんと伝わってきた。
これで、四柱。けれど、火の神を救う道のりは、これまでと明らかに違った。
飢えでも、渇きでも、諦めでもなく——「自分の力を災いだと思い込まされた」神。
その思い込みを、料理で解いた。
神々を蝕むものは、土地ごとにこれほどまで姿を変える。
だとすれば、その大本にいる“あのお方”とは、いったいどれほど底知れない存在なのか。
紅蓮の山の暴走は収まりはじめた。灼熱の大地に、ようやく安らぎの気配が戻ってくる。
焼け焦げていた谷の隅に、早くも小さな新しい芽が顔を出していた。
——けれど、戦いはまだ終わっていなかった。
背後では、追っ手との剣戟がなおも続いている。
そして、この陰謀の本当の黒幕は——まだ姿を見せていなかった。
火の神を兵器に変えようとした者。その正体を暴かぬかぎり、この国の、そして世界の災いは終わらない。
わたくしは、新たな珠を握りしめ、剣戟の鳴る背後へと振り返った。
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