第73話 火が生んだ、ごちそう
紅蓮の山の麓に、わたくしたちは仮の厨房をこしらえた。
火の神に捧げる、一皿。それを、ここで作り上げる。
鎮火の儀の作法を、ガルム将軍に教わりながら。
前世と今世の料理の技を、すべて注ぎ込んで。
「儀式では、火で炙った肉と、香木の煙を捧げた」
ガルムが腕を組んで言った。
「だが、お前はそれを“料理”にする、と言うのだな」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「火が、いかに豊かな恵みを生むか。それを最も雄弁に語れるのが、料理ですから。——火の神様に味わってもらうんです。あなたの火が、こんなにもおいしいものを生み出すんだ、と」
何を作るか。答えは、もう決まっていた。
火の力を最大限に引き出した料理。火でしか生み出せない、おいしさの結晶。
まず、炭火でじっくり炙る。
アスタリカの火山地帯で育った、岩塩を舐めて育つという、赤身の締まった山羊の肉。
その脂を、わざと炭の上に滴らせ、立ちのぼる煙で肉自身を燻す。
遠火と近火を、何度も使い分ける。
強い火で表面を一気に焼き固め、香ばしい膜を作ってから、弱い熾火に移して、じっくりと中まで火を通す。
表面はこんがりと、中はしっとり、紅色を保ったまま。——直火だけが生み出せる、香りと食感。
仕上げに、この地で採れる、火を思わせる赤い香辛料をひとつまみ。
ぴりりとした辛味が、脂の甘さをいっそう引き立てる。
次に、土の竈で長く煮込む。
根菜と香草を、火の通りの早いものから順に、頃合いを計りながら鍋へ。
ことこと、ことこと。
竈の、優しく安定した火が、素材の角を取り、とろりとした甘みを引き出していく。
煮立たせすぎず、けれど火を絶やさず。火と、根気の、対話だった。
そして——香木を焚く。
儀式の作法に倣い、けれど、ただ焚くのではなく。
その芳しい煙で、料理に燻香をまとわせる。火の香りそのものを、ごちそうの一部に変えるのだ。
炙られた肉がじゅうと音を立て、香ばしい脂の匂いが灼熱の谷に立ちのぼる。
煮込みの竈からは、根菜の甘い湯気。香木の、清々しくも深い燻香。
それらが混じり合い、炎と熱ばかりだったこの地獄のような土地に、ふいに人の暮らしの匂いが——あたたかな食卓の気配が満ちていく。
「……すごい」
ザイードが、思わず声を漏らした。
「火を、これほど巧みに操る料理など、見たことがない」
火を、敵としてではなく相棒として扱う。
荒ぶる炎の力を、なだめ、導き、おいしさへ変えていく。
それは、料理人が何千年も火と付き合ってきた、その歴史そのものだった。
炙り、煮込み、燻し。——どれも、火がなければ生まれない。
火の恵みをこれでもかと詰め込んだ、渾身の一皿だった。
仕上げに、わたくしは胸元の三つの珠を、料理の上にかざした。
味の神。潤いの神。水の神。——これまで救ってきた神々の加護。
その力をほんの少しだけ料理に宿す。同胞の温もりを、この一皿に込めて。
火の神の孤独な苦しみに、寄り添えるように。
三つの珠が淡く光り、料理を優しく包んだ。
「……できました」
香ばしく炙られた肉。とろりと煮込まれた根菜。立ちのぼる燻香の煙。
それは、火という力が生み出しうる、すべてのおいしさを結晶させた、ごちそうだった。
けれど、皿を手に立ち上がった、そのとき。
「——待て」
ガルム将軍が、低い声でわたくしを制した。
その顔は、深い苦渋に満ちていた。長く、何かと戦っているようだった。己の、武人としての矜持と。
「……この期に及んで、まだお前を疑い続けるのは」
将軍は、絞り出すように言った。
「……武人の、矜持に反する。もう、これまでだ。——聞いてくれ。言っておかねば、ならんことがある」
ひと呼吸置いて。ガルムは、覚悟を決めた目で口を開いた。
「この火の災いには、裏がある。我が国の一部の強硬派が——火の神の暴走を、利用しようと企んでいるのだ」
わたくしは、息をのんだ。
「火の力を、兵器として御せぬか、と。封印を研究し、あろうことか、その力を貴国への侵攻に使おうと……。災いがこれほど広がったのも、奴らが封印をいじり、神を刺激したせいだ」
ガルムの告白は衝撃的だった。
火の神の暴走の裏に、人の野心が絡んでいた。——“あのお方”の影響だけではない。それを利用しようとする、人間の欲が。
世界の理の綻びは、もはや、人の手で加速させられていたのだ。
「……我が国を狙っていた、というわけか」
アルヴィスの声が、低く地鳴りのように響いた。
剣の柄にかかった手が、白くなるほど握りしめられている。静かな、けれど凍てつくような怒気。
「神の力を、兵器に。——もしそれが成れば、ヴァルドも王国も、灼熱の炎で焼かれていた。セラの故郷も、領民も、すべて」
「だからこそ、止めねばならん」
ガルムが、苦々しく頷いた。
「私は、軍人として強硬派に与してきた。だが……お前の料理を見て、迷いが生じた。敵国の女が、見返りも求めず、我が民にあたたかい飯を配る。その姿に——己の進む道が間違っていたと、思い知らされた」
将軍は、深く頭を下げた。
歴戦の武人の、その重い一礼に、わたくしは胸を打たれた。
「これ以上、神を利用すれば、国ごと滅ぶ。——だから教える。神を救うなら、急げ。奴らが邪魔をしに来る前に」
思わぬ真実。そして、思わぬ味方。
火の神を救う戦いは——人の陰謀をも巻き込んだ、より複雑なものへと変わろうとしていた。
それでも、わたくしのやるべきことは変わらない。苦しむ神を救い、飢えた民を救う。人の欲がどう絡もうと、鍋を握る手はぶれない。
「……ありがとうございます、将軍」
わたくしは皿を握りしめた。
「では、急ぎましょう。——あの、苦しむ神様を救うために」
そのときだった。山の麓のほうから、馬蹄の音がいくつも響いてきた。
土埃を上げて近づいてくる、武装した一団。
その先頭の旗印を見て、ガルムの顔が険しくなった。
「……来たか。強硬派の追っ手だ」
将軍が、低く唸った。
「お前が神を鎮めてしまえば、奴らの計画は潰える。だから、その前に——お前を消しに来た」
つかの間の静寂が破られた。猶予は、もうない。
神を救うことと、追っ手を退けること。二つの戦いが同時に迫っていた。
「アルヴィス様、ザイードさん。——わたくしが神様のもとへ行く間、時間を、稼いでいただけますか」
「言われずとも」
アルヴィスが、剣を抜いた。
その背が、頼もしくわたくしの前に立つ。
「行け、セラ。ここは引き受けた。——お前は、お前の戦いを果たせ」
「私も加勢する」
ザイードも、細身の剣を構えた。
ガルムもまた、配下に迎撃の指示を飛ばす。
敵国で出会った者たちが、今、肩を並べてわたくしの背を守ろうとしていた。
その信頼に、応えなければ。
灼熱の紅蓮の山へ。火の恵みを結晶させた一皿を携えて。わたくしは、踏み出した。
背後で、剣戟の音が鳴りはじめる。
——必ず、間に合わせる。あの苦しむ神を、救うために。
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