第72話 紅蓮の中の神
紅蓮の山の最奥へ。わたくしたちは、慎重に歩を進めた。
熱気は、もはや息をするのも苦しいほどだった。
地面は焼け、岩は赤く灼け、足を踏み入れるだけで靴の底が焦げそうになる。
胸元の三つの珠が、淡い光でわたくしの周りの熱を、わずかに和らげてくれる。それがなければ、とても進めなかった。
「……これ以上は、危険だ」
ザイードが、額の汗を拭った。
「人の身では、ここが限界です」
「いいえ。もう少し、先に。——感じます。すぐ、そこにいます」
灼熱の谷の最奥。煮えたぎる溶岩の、その中心に——それはいた。
巨大な炎の塊。渦巻く火柱。
その中に、ゆらめく人ならざるものの影。
全身を激しい炎で包み、苦悶するようにのたうっている。触れるものすべてを灼き尽くしながら。
四柱目の、忘れられた神。火を司る神だった。
——アツイ。
頭の中に、灼けつくような想念が響いた。
——アツイ。クルシイ。止マラナイ。我ノ火ガ、止マラナイ……!
その声に、わたくしははっとした。
これまでの三柱とは違う。味の神は飢え、潤いの神は渇き、水の神は諦めていた。
けれど、この火の神は——自分自身の力に焼かれて苦しんでいた。
(……どういう、こと?)
想念の奥を探る。すると、流れ込んできたのは、これまでと異なる悲鳴だった。
——人ハ、火ヲ恐レタ。竈ノ火モ、鍛冶ノ火モ、皆、我ガ与エタモノ。ナノニ人ハ、火ガ燃エ広ガルタビ、我ヲ呪ッタ。災イノ神ダト。……ソシテ、我ヲ封ジタ。火ヲ、悪シキモノトシテ。
火の神の苦しみは、ほかの神とは逆だった。
忘れられたのではない。——恐れられ、憎まれ、封じられたのだ。
火という、恵みでもあり災いでもある、その力ゆえに。
——封ジラレ、我ノ火ハ行キ場ヲ失ッタ。出口ノナイ火ガ、我ノ内デ膨レ上ガリ……モハヤ、自分デモ止メラレヌ。誰カ、止メテクレ。コノ苦シミヲ……!
その悲痛な叫びに、わたくしの胸は締めつけられた。
恵みを与えていたのに、その力ゆえに恐れられ封じられた、神。
行き場を失った力が暴走し、自分自身をも焼き尽くしている。
——なんという、悲しい矛盾だろう。
「……アルヴィス様。この神様は、ほかとは違います」
わたくしは振り返り、告げた。
「飢えや渇きを満たせばいい、のではありません。この方の火は、出口を失って暴走している。——必要なのは、満たすことではなく」
「なく?」
「この暴れる火に、正しい“行き場”を与えることです。火を、恐ろしい災いとしてではなく。——人をあたためる、恵みの火として。もう一度、思い出してもらう」
言いながら、わたくしの中で答えの輪郭が見えはじめていた。
火は、料理人にとって最も身近な相棒だ。竈の火、かまどの炎。
それは、食材をおいしく変え、人をあたためる恵みそのもの。
——この神に、その火の本当の姿を、料理を通して伝えられないだろうか。
煮え、焼け、香ばしく実りを変える、あの優しい火の姿を。
「……だが、どうやって近づく」
アルヴィスが、灼熱の炎を見据えた。
「あの炎の中へ料理を届けるなど。近づけば、一瞬で灰になるぞ」
確かに、そうだった。
三つの珠の加護をもってしても、神の本体の炎に直接触れれば、ただでは済まない。
料理を捧げるどころか、近づくことすら難しい。
そのとき。
「……方法は、ある」
低い声で口を開いたのは——意外にも、ガルム将軍だった。
「この紅蓮の山には、古くから火を鎮める、“鎮火の儀”の伝承が残っている。我らアスタリカの民が、火の山と共に生きるための知恵だ」
将軍は、苦々しげに、けれど確かに言った。
「……敵国の女に教えるのは業腹だが。民が死ぬのを見過ごすよりは、ましだ」
意外な協力者の出現に、目を見開いた。
料理の匂いと共に過ごした時間が、頑なな将軍の心を少しずつ動かしていたのだ。
「それに、だ」
ガルムは、ぼそりと付け加えた。
「……昨夜の、お前の飯。あれを食って以来、どうも、調子が狂う。忘れていた、故郷の味を、思い出しちまった。——あんな飯を食わせる女が、我が国を害するとは、どうしても、思えん。それだけだ」
その不器用な言葉に、わたくしは思わず微笑んだ。
氷のように見えた敵将の心にも、料理の温もりはちゃんと届いていた。
「ありがとうございます、将軍。——その知恵、お借りします」
ガルムは、ごほんと咳払いをして語りはじめた。
「鎮火の儀とは、こうだ。火の山が荒ぶるとき、我らの祖先は、山の麓に特別な“供物”を捧げた。火で炙った肉や、香木を焚いた煙——火の恵みで作ったものを、火の神へ返すのだ。『あなたの火は、これほど豊かな恵みを生む』と、示すためにな」
その言葉に、わたくしの中でばらばらだった答えが一気に繋がった。
「……そうか。火の神は、自分の火が“災い”だと思い込んで暴走している。だったら、その火が生んだ“恵み”を見せれば——自分の本当の姿を、思い出すかもしれない」
火で炙り、煮込み、香りを立てる。料理とは、まさに火の恵みの結晶だ。竈の炎なしに、おいしい一皿は生まれない。
——この神に捧げるべきは、火が生み出した最高の料理。「あなたの火は、人をこんなにも幸せにする」と、舌で、香りで、伝えるのだ。
「鎮火の儀の作法に、わたくしの料理を重ねます」
わたくしは、確信を込めて言った。
「ただ供物を捧げるだけじゃない。火の神自身に、“火で作る料理のおいしさ”を味わってもらう。それが、暴れる火に正しい行き場を思い出させる、鍵です」
ザイードが、感嘆の息を漏らした。
「……敵国の伝承と、あなたの料理が、繋がるとは」
ガルムも、腕を組んだまま何も言わない。
けれど、その目には、もう出会った頃の剥き出しの敵意はなかった。
封じられ、暴走する火の神。
その苦しみを解く鍵が、敵国の伝承の中に、あるのかもしれない。
灼熱の神を巡る戦いは、思わぬ形で、敵味方の垣根を越えはじめていた。
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