第70話 国境を越えて
ヴァルドを発ち、西へ。
一行は半月をかけて、アスタリカとの国境へ至った。
国境には、物々しい検問の砦がそびえていた。
武装した兵士たちが、鋭い目で、行き交う者を検めている。長く敵対してきた、二国の境。空気は、ぴりぴりと張りつめていた。
「ここからは、私が案内する」
使者のザイードが、前に出た。
彼が通行証を示すと、兵士たちは、わたくしたちを無遠慮に眺め回しながらも、道を開けた。
けれど、その視線は決して友好的ではない。敵国の要人を値踏みする、警戒のまなざしだった。
「歓迎されて、いませんね」
馬車の中で、わたくしが小声で言うと、アルヴィスは低く頷いた。
「当然だ。昨日まで、刃を向け合っていた相手だ。——気を抜くな。ここから先は、すべてが敵だと思え」
国境を越えると、景色は一変した。
アスタリカは、噂に違わぬ強大な国だった。
よく整備された石畳の街道。立派な石造りの街並み。道を行く人々の装いも、豊かで垢抜けている。
軍事大国らしく、街道のあちこちに駐屯地があり、武装した兵が隊列を組んで行軍していた。
けれど——西へ進むほど、その豊かな国にも、影が差しはじめた。
避難民の列。西の故郷を追われた人々が、家財を抱えて東へ流れてくる。
その表情は、ヴァルドで、ノルドで、サウディスで見てきたものと同じだった。
飢えと、絶望の色。
「西の火の災いから、逃れてきた者たちです」
ザイードが、沈痛な面持ちで言った。
「日に日に、その数は増えている。豊かなアスタリカも、このままでは……」
国の大きさも、軍の強さも。世界の理の綻びの前には無力だった。その事実が、ずしりと胸に響いた。
垣根の向こうの敵国にも、飢えに泣く子がいる。それを知ってしまえば、もう、ただの“敵”だとは、思えなかった。
王都に着いても、わたくしたちは、すぐには王宮へ通されなかった。
あてがわれたのは、街外れの客館。
丁重ではあったけれど、常に衛兵が見張りに立っている。客人というより、軟禁に近い扱いだった。
「……やはり、警戒されていますね」
「ああ。当然の対応だ」
アルヴィスは冷静だった。
「敵国の要人を、易々と王宮の奥まで入れるわけがない。——おれたちが本当に災いを鎮められるか。見極めるまでは、こうして囲っておくつもりだろう」
その夜。わたくしは一人、客館の窓から西の空を眺めた。
赤黒い光が、地平の彼方ににじんでいる。火の災いの放つ、不吉な輝き。
胸元の三つの珠が、それに呼応するように、熱く脈打っていた。
——近い。四柱目の神は、すぐそこにいる。
(……待っていてください。必ず、あなたを救いに行きます)
翌日。ようやく、わたくしたちは王宮へと招かれた。
謁見の間で待っていたのは——アスタリカの、若き王だった。
まだ二十代だろうか。アスタリカ王、レオハルト。
精悍な顔立ちの青年王だが、その目には強い警戒と、隠しきれない焦りが宿っていた。
「よくぞ来た。敵国の“食の魔術師”よ」
王の声は硬かった。
「単刀直入に言おう。余は、そなたを完全には信じておらぬ。敵国の者が、こうも都合よく、救いの手を差し伸べる。——裏があると疑うのが、当然だ」
「ごもっともです」
わたくしは、臆さず答えた。
「では、こう申し上げます。わたくしは、アスタリカを救いに来たのではありません。——“飢えた人々”を救いに来ました。その人々が、たまたまアスタリカの民だった。それだけのことです」
王の眉が、動いた。
「国の垣根は、わたくしには関係ありません。目の前に飢えた人がいれば、鍋を持って駆けつける。敵も、味方もない。——それが、料理人の流儀ですから」
しばしの沈黙。
やがて、若き王の硬かった表情が、ほんのわずかにゆるんだ。
「……面白い女だ」
レオハルト王は、ふっと息をついた。そして、声を落とし、絞り出すように続けた。
「正直に言おう。——余は、追い詰められている。この災い、ただの天災ではない。軍の強硬派が、何か良からぬことを企んでいる。だが、奴らは軍を握り、若い余は王宮で孤立している。打てる手が、ない」
王の目に、年相応の苦悩の色が滲んだ。
それは、強大な軍事大国の王という仮面の下の、ひとりの青年の素顔だった。
「だからこそ、賭けてみたくなった。敵国の、風変わりな料理人に。——奴らに与しない外の者だからこそ、できることが、あるやもしれぬ」
そして、王の目が鋭く光った。
「いいだろう。その流儀とやら、見せてもらおう。——ただし」
レオハルト王は、低く、刃のような声で、告げた。
「もし少しでも、我が国に害をなす素振りを見せれば。そのときは、容赦はせん。——肝に銘じておけ」
謁見のあと、わたくしはさっそく動いた。
「陛下。さっそくですが、王都の外れに集まった避難民たちに、炊き出しをさせていただけませんか。災いの震源へ向かう前に——まず、目の前で飢えている人を放っておけません」
王は、わずかに驚いた顔をした。
敵国の地で、真っ先に見返りのない人助けを願い出る。その申し出は、よほど意外だったらしい。
許しを得て、わたくしは持参したヴァルドの保存食と、現地で買い集めた食材で、大鍋をいくつも火にかけた。
香ばしい湯気が、避難民の天幕の間にふわりと広がっていく。
最初、人々は警戒していた。「敵国の女が、何のつもりだ」と。
けれど、空腹には勝てない。おそるおそる差し出された椀をひと口すすった、痩せた老人の目から——ぼろりと涙がこぼれた。
「……あったかい。あったかい飯が、こんなにうまいなんて。……忘れて、いた」
その一杯が、警戒を溶かしていく。
次々と人々が集まり、椀を手に、ようやく安堵の息をつく。子どもたちが、はにかんで笑う。
敵も味方もない、あたたかな食卓が、敵国の片隅にぽつりと灯った。
——けれど、その光景を、苦々しく睨む者もいた。
「……気に入らんな」
豪奢な甲冑をまとった強面の将軍が、吐き捨てた。
後に聞けば、対ヴァルド強硬派の筆頭、ガルム将軍だという。
「敵国の女が、施しで民の心を買おうとしている。——陛下も、陛下だ。あんな女の、口車に乗るとは」
その敵意は、隠そうともしていなかった。
アスタリカの中にも、わたくしたちを害そうとする者がいる。それも、王に近い軍の重鎮が。
——気を抜けば、足をすくわれる。
敵国の王宮。張りつめた緊張の中。
わたくしの武器は、剣でも、権謀でもない。——ただ、ひと皿の料理。この異郷の地でも、それが通じると、信じて。わたくしは、静かに前を見据えた。
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