第68話 三つの光
ヴァルドへ帰り着くと、季節は、夏の盛りを迎えていた。
留守を守ってくれたセバスやマルクたちに無事を喜ばれ、村人たちに迎えられる。
何度繰り返しても、この帰郷の温もりは格別だった。
旅の疲れも危機の記憶も、ヴァルドの土を踏むと、すっと和らいでいく。
その夜、わたくしは自室で、三つの珠を机に並べた。
味の神の淡い珠。
潤いの神の青い珠。
そして、水の神の澄んだ水色の珠。
——三柱の忘れられた神々の加護の証が、いま、わたくしの手に揃っていた。
「……三つ、揃いましたね」
隣でアルヴィスが、静かに言う。わたくしは頷いた。
三つの珠は、机の上で互いに呼応するように、淡く明滅している。
その光が強まり——前に一度見せた、あの“地図”が、ふたたび空中に浮かび上がった。
三つの珠が揃ったことで、光の像は、一段と濃く、鮮明になっていた。
前は珠の光しか見えなかったアルヴィスの目にも、今度はおぼろげながら、その輪郭が映っているようだった。
彼が、息を呑んで空中の像を見つめている。
けれど、今度の地図は、前とは違っていた。
三柱の神を救ったからだろうか。世界の像は、より鮮明になっていた。
そして——わたくしたちが救った、三つの場所。
ノルド、サウディス、ミルディア。
そこにあった光点が、もう赤黒くはなかった。
穏やかなあたたかい光で、灯っている。
「救った神々の光が、安定したんです」
わたくしは、地図を見つめた。
「でも……ほかの光点は」
地図の上には、まだいくつもの光点が、瞬いていた。
そのうちのいくつかは、不穏な赤黒い色を帯びている。
次に暴走しかけている、忘れられた神々。
世界には、まだこんなにも、救うべき神が残っている。
そして――地図の中心の、あの闇の点。
「あのお方……」
三つの珠が揃ったことで、その闇の点は前よりも、はっきり見えるようになっていた。
すべての綻びの根。底知れない、深い闇。
けれど、見つめるほどに、わたくしはあることに気づいた。
「……アルヴィス様。この闇の点。よく見ると——“形”が、あります」
それは、玉座のような影だった。
深い闇の中に、何か巨大なものが鎮座している。
眠っているようにも見える。
けれど、その周りで闇がゆっくりと脈打っていた。
まるで巨大な心臓のように。
生きている。眠りながら、確かに生きて、目覚めの時を待っている。
背筋を、冷たいものが伝った。
これが、宰相の言っていた“あのお方”。
世界の理を歪ませる、根源の存在。
忘れられた神々が、飢え、渇き、諦めて暴走するのも——きっと、この“何か”の影響なのだ。
神々から本来の役割を奪い、世界の理を内側から、蝕んでいく元凶。
「……これと、いつか対峙することになるのですね」
わたくしの声は、かすかに震えていた。
三柱の神でさえ、あれほどの力を持っていた。
その、すべての根源。一体、どれほどの存在なのか、想像もつかない。
アルヴィスが、わたくしの肩に手を置いた。
「恐れるな。——一柱ずつ神を救ってきたように、一歩ずつ進めばいい。お前はもう、十分に強い」
その言葉に、強張った心がほどけた。
そうだ、最初からすべてを背負おうとしなくていい。
目の前の、救える神を一柱ずつ。そうやって進んだ先に、きっと答えがある。
地図の光が消えたあと。わたくしは、三つの珠をそっと握りしめた。
「アルヴィス様。次の赤黒い光点も、近いうちに向かわねばなりません。けれど——その前に、ひとつ、確かめたいことがあります」
「確かめたいこと?」
「ええ」わたくしは頷いた。
「初代辺境伯の、“神の舌”。そして、わたくしの《美食家の舌》。——なぜ、わたくしだけが神々の声を聞き、この地図を見ることができるのか。その答えは、きっと、ヴァルドの歴史の中にあります」
かつて、断片だけ触れた、あの伝承。
初代辺境伯が、世界の理に関わっていたという記録。
それを、もう一度、深く調べる。
——わたくしの力の、本当の意味。
そして、“あのお方”との繋がり。すべての謎を解く鍵が、そこに眠っている気がした。
宰相は、わたくしの舌を欲しがった。
「神の舌の力こそ、世界の理に触れる鍵だ」と。
ならば、その力の正体を知ることは、敵の狙いを知ることでもある。
「いいだろう」
アルヴィスが頷いた。
「ヴァルドの、古い書庫だな。——付き合おう。おれの家の歴史でも、あるからな」
翌日から、わたくしたちは館の奥の古い書庫に、こもった。
埃をかぶった辺境伯家の、古い記録。
先祖代々の覚え書き。色あせた羊皮紙の束。
それを一枚ずつ、丹念にめくっていく。
王都で初めて触れたときは、断片しか読めなかった。
けれど今は、神々の珠という確かな手がかりがある。
読み解ける文脈が、まるで違った。
そして、最も古い一冊の記録の、最後のほうに。
わたくしは、ある一節を見つけた。
「アルヴィス様。——これを」
色あせた文字を声に出して、読む。
『初代辺境伯は、滅びかけた、この地に、立てり。飢えと、乾きと、淀みの、満ちる地に。されど、かの者、“神々の声を聞く舌”を以て、土地の神々と、誓いを交わせり。——人と、神とを、繋ぐ、架け橋とならん、と』
息を呑んだ。
“神々の声を聞く舌”。——それは、まさにわたくしの《美食家の舌》。
初代辺境伯もまた、神々の声を聞き、彼らと誓いを交わしていた。
だからこそ、ヴァルドは、辺境の痩せた地でありながら、滅びずに続いてこられたのだ。
「……お前の力は、初代から、受け継がれたものだったのか」
アルヴィスが、感慨深げに、呟いた。
「ええ。きっと、偶然じゃありません。わたくしがこの地に嫁ぎ、この力に目覚めたのも。——何か、大きな流れの中に、あるのかもしれません」
けれど、記録は、そこで途切れていた。
誓いの続き。“あのお方”との関わり。
肝心な部分は、まだ闇の中だった。
夏の夜風が、窓から心地よく吹き込んでくる。
三柱の神を救い、三つの光を手にした、わたくしたち。
そして今、自らの力の源にも、手が届きはじめた。
物語は、いよいよ核心へと——“あのお方”と、神の舌の真実へと、近づきはじめていた。
新たな謎を解く、その旅が、また静かに、始まろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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