第67話 光さす、水面へ
光が、遠い。
水面の光は、はるか頭上で揺らめいている。
けれど、わたくしの体は思うように進まなかった。
錘は手放した。
それでも、長い潜行で力を使い果たした体は、重く沈みかけてしまう。
胸が、苦しい。空気は、もうない。
(……まだ。まだ、ここで……)
意識が、霞んでいく。
澄みはじめた水の青さが、やけに綺麗に見えた。
このまま目を閉じれば、楽になれる。——そんな甘い誘惑が、頭をよぎる。
けれど、その瞬間。
岸でわたくしの帰りを信じて待つ、アルヴィスの顔が浮かんだ。
「必ず、戻ってこい」。あの約束。
月夜に交わした、「穏やかに暮らそう」という未来。
——まだ、死ねない。あの人のもとへ、帰るんだ。
最後の力を、振り絞る。
霞む意識の中、わたくしはただ光を目指して、手を伸ばした。
そのとき。水面が激しく、割れた。
何か大きな影が、ざぶりと水中へ飛び込んでくる。
——アルヴィスだった。
彼は迷わず、沈みかけたわたくしへまっすぐに潜ってきた。
重い剣も、鎧も、かなぐり捨てて。
およそ、泳ぎが得意な男ではない。それでも、ためらいなど、みじんもなかった。
その手が、わたくしの腕をしっかり掴む。
力強い、あたたかい手。
(……アルヴィス、様)
霞む視界の中、彼の顔が見えた。必死の形相。
けれど、その目はわたくしを捉えて、決して離さない。
ぐっと引き寄せられ、彼の腕にしっかり抱きとめられて。
わたくしの体は、ぐんぐんと光のほうへ——水面へと、引き上げられていった。
「——っ、ぷはっ……!」
水面を、突き破る。
肺いっぱいに空気を吸い込んだ瞬間。
咳き込み、むせながらも、生きているという実感が全身を駆け巡った。
「セラ! しっかりしろ!」
アルヴィスの声。
彼は片腕でわたくしを抱え、もう片方の腕で必死に水をかいていた。
漁師の小舟が、すぐに漕ぎ寄せてくる。
二人がかりで、わたくしは舟へと引き上げられた。
「……アルヴィス様。潜って、きてくださったのですね」
かすれた声で言うと、アルヴィスはずぶ濡れのまま、わたくしを折れんばかりの強さで抱きしめた。
その腕が、その体が、見たこともないほど激しく震えている。
「……当たり前だ。お前がなかなか浮かんでこないのを見て、おれがどれだけ……!」
声が掠れ、途切れる。
「心臓が止まるかと思った。——頼むから、おれを置いて逝くな。セラ……頼む」
いつも泰然としているこの人が。
氷の死神と恐れられた男が、子どものように声を震わせている。
わたくしのために、剣を捨て、濁った水へ飛び込んでくれた。
武人が、剣を捨てる。それが、どれほどのことか。
——抱きしめる腕の、骨が軋むほどの痛みが、何より雄弁に、彼の恐怖と愛を語っていた。
「……ごめんなさい。心配を、かけました」
彼の背に、そっと手を回す。
「でも、ちゃんと戻ってきました。あなたのところへ。——成功、しました」
わたくしは、微笑んだ。
「水の神様を、救えました。もう、この湖は——」
言葉の、途中だった。
漁師が、素っ頓狂な声を上げた。
「み、水が……! 見てくだせえ、奥方様! 湖が——!」
顔を上げる。——湖が、輝いていた。
あれほど灰色に淀んでいた、ミルディアの水。
それが今、見渡すかぎり青く透き通っていた。
底まで見通せるほどの清らかさ。
水面には、戻ってきた水鳥が羽を休め、水中では魚影がいきいきと躍っている。
死にかけていた大湖が、完全によみがえったのだ。
岸辺で見ていた村人たちから、どっと歓声が上がった。
「湖が戻った! 清らかなミルディアが、戻ったぞ——!」
抱き合い、泣き、喜ぶ人々。
その光景を舟の上から眺めながら、わたくしの胸も熱く、満たされた。
三度。わたくしは三度、絶望の淵にあった土地に命を取り戻した。
けれど、何度味わっても、この瞬間の喜びだけは決して色褪せない。
ふと、胸元の珠を確かめる。
二つの珠の隣に——いつのまにか、もう一つ。
澄んだ水色の光をたたえた、新たな珠が加わっていた。
水の神が遺してくれた、加護の証。
三柱目の、忘れられた神を救った。
底流する世界の危機に、また一つ、新たな絆が、わたくしの手に宿った。
その夜、湖畔の村は、再生を祝う宴に沸いた。
清らかさを取り戻した湖からは、さっそく丸々と太った魚が、たくさん獲れた。
村人たちが、それをわたくしのもとへ、抱えきれないほど運んでくる。
「奥方様! どうか、この湖の幸で、料理を! あなたの料理で、湖の復活を、祝わせてくだせえ!」
断る理由など、なかった。
わたくしは腕まくりをして、かまどの前に立った。
獲れたての魚を、香ばしく焼き上げる。
澄んだ湖の水でふっくら炊いた、菱の実の飯。
ヴァルドから持参した味噌で仕立てた、魚のあら汁。
——湯気を立てる料理が、次々と並んでいく。
ひと口、魚の身を、口に運んだ村長が、目を見開いた。
「……うまい。こんなに,うまい魚は、何年ぶりだろう。澄んだ水で育った魚は、こんなにも味が違うのか……!」
涙ぐむ村長。それを見て、わたくしも胸がいっぱいになった。
清らかな水がおいしい魚を育み、その魚が人を笑顔にする。
水の神が守ってきた、その恵みの循環が、今、確かに戻ってきたのだ。
「水底の主に、感謝を」
わたくしは、村人たちに、語りかけた。
「この湖の恵みは、ずっと水を司る神様が、与えてくださっていたもの。どうか、忘れないでください。年に一度でいい。湖に感謝を、捧げてください。——そうすれば、神様は、二度と、淀んだりしません」
村人たちは、深く頷いた。
忘れられた神は、もう忘れられない。その約束が、この湖の、未来を守る。
「アルヴィス様。——帰りましょう。あたたかい、ヴァルドへ」
ずぶ濡れの服を着替えた二人は、顔を見合わせて笑った。
清らかさを取り戻した青い湖が、二人を優しく照らしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




