第66話 諦めを解く
(あなたは、まだ必要とされています)
わたくしは水の中で、心の声を神へと放った。声は出せない。
けれど《美食家の舌》を通じてなら、想いは届くはずだった。
『嘘ヲ、ツクナ』
水の神の想念が、冷たく撥ねつけた。
『人ハ、我ヲ忘レタ。誰モ、我ヲ想ワヌ。汝モ、用ガ済メバ去ルノダロウ。……モウ、ヨイ。期待ハ、シナイ。何モ、要ラヌ』
深い、諦めだった。
飢えや渇きなら、満たせば鎮まる。けれど、この神の心は固く閉ざされていた。
何を捧げても、「どうせ、また忘れられる」と撥ねつけてしまう。
——料理だけでは、この心は開けない。
けれど、わたくしには、この諦めの痛みが、分かる気がした。
前世のわたくしも、すり減って倒れたあの最後の頃、心のどこかで諦めていた。
どれだけ尽くしても、誰も本当には分かってくれない、報われない。
——だから、期待するのをやめた。
期待しなければ、傷つかずに済むから。
それは優しさではなく、自分を守るための固い殻だった。
この神も、きっと同じだ。傷つきたくないから、諦めるしかなかった。
——だったら、必要なのは、料理でも、言葉の説得でもない。
「あなたの痛みを分かる者がいる」と、伝えることだ。
(……どうすれば)
革袋の空気は、もうほとんど残っていない。
けれど、ここで引き返せば、この神は永遠に諦めたまま。湖は淀み、人々は飢える。
そのとき。わたくしは、ある確かなものを思い出した。
胸元の、二つの珠。
味の神。潤いの神。——わたくしが救った、二柱の神々。
彼らは別れ際、こう言ってくれた。「また、会おう」と。
そうだ。忘れられた神は、もう一柱ではない。
わたくしは、二つの珠を両手でそっと包み込み、念じた。
——どうか、力を貸してください。あなたたちの同胞が、苦しんでいます。
応えるように、二つの珠が、まばゆく輝いた。
その光が、水の神へと伸びていく。
誠意に反応するように、珠の中から二つの“声”が響いた。
水の神にも届く、神々の声が。
『久シイナ、水ノ兄弟ヨ』
『我ラハ、戻ッテキタ。コノ人ノ子ニ、救ワレテ』
水の神の想念が、揺らいだ。
『オ前タチ……? 味ノ、潤イノ……。生キテ、イタノカ。我ト同ジク、忘レラレタ、ハズノ……』
『ああ。我ラモ、諦メカケテイタ。ダガ、コノ者ガ、想イ出サセテクレタ。——忘レラレテモ、終ワリデハナイ、ト』
水の神の、固く閉ざされた心に、初めてひびが入った。
同胞の神々の声。
それは、わたくしのどんな言葉よりも深く、この神の孤独に届いた。
同じ痛みを知る者だけが、差し出せる救い。
わたくしの料理がここでは届かなかったぶんを、二柱の神が埋めてくれた。
救ってきた縁が、今、巡り巡ってわたくしを助けている。
その隙に、わたくしは想いを込めて、語りかけた。
(あなたは、ひとりじゃありません。あなたを忘れた人々も、本当は、あなたの恵みなしには生きられない。ただ、想い出すきっかけを失っていただけ。——わたくしが必ず、伝えます。この湖の恵みが、あなたの贈り物だったことを)
そして——とっておきの、最後の鍵を、差し出した。
潜りながら、舌に拾い集めた、あの“味の記憶”。
淀みの奥に、かすかに残っていた、遠い昔の清らかな水。
人々が感謝とともに捧げた、みずみずしい菱の実の優しい甘み。
——その幸福な味を、わたくしは《美食家の舌》から想念に乗せて、神の心へと解き放った。
(これが、あなたがかつて人々に与え、人々が感謝して捧げ返した、味です。——おいしいでしょう? あたたかいでしょう? あなたは、こんなにも、愛されていたんですよ)
水の神の揺らめく体が、激しく震えた。
『コレ、ハ……。我ガ、愛シタ……人々ノ、感謝ノ、味……。覚エテイル。覚エテ、イタ……ナノニ、我ハ……忘レタフリヲ、シテイタダケ、ナノカ……』
固く閉ざしていた殻の、いちばん奥。
神が、自分でも見ないようにしていた、幸福な記憶。
それを、味がまっすぐに呼び覚ました。言葉では、決して届かなかった場所へ。
(だから——どうか、もう一度だけ、人を信じてみてください)
水の神の、青い揺らめきが震えた。
『信ジテ、マタ裏切ラレタラ……?』
(そのときは、わたくしが何度でも、想い出させに来ます。あなたが諦めてしまわないように。——約束します)
長い、長い沈黙。
水底の闇の中で。
諦めきった古い神は、差し出された温もりを前に迷い、揺らぎ——そして。
『……信ジテ、ミヨウ。モウ一度、ダケ』
ほどけた。固く閉ざされた、諦めの心が。
その瞬間。水の神の体を覆っていた淀んだ澱が、すうっと晴れていった。
青い揺らめきが、本来の清らかな輝きを取り戻していく。
『アア。……水ガ、澄ンデイク。我ノ心モ。久シク忘レテイタ、コノ軽ヤカサヲ』
濁りきっていた湖の水が、神の心が晴れるとともに、みるみる透明度を増していく。
わたくしの周りの闇が晴れ、青く清らかな水の世界が広がっていく。
差し込む光に、無数の小さな魚たちが、きらきらと身をひるがえした。
死にかけていた湖に、命が、還ってくる。
『礼ヲ言ウ。人ノ子ヨ。ソシテ、同胞タチヨ』
水の神の声は、もう、あの冷たい諦めの色はなかった。
あたたかく澄んでいた。
『コノ湖ハ、モウ淀マヌ。マタ,人ノ笑イ声ヲ見守ロウ。今度ハ、忘レラレテモ待ッテミヨウ。コノ者ガ教エテクレタ。待ツコトハ無駄デハナイ、ト』
清らかさが、湖全体へと還っていく。
けれど——わたくしの革袋の空気は。
ついに、尽きた。
胸が苦しい。意識が遠のく。
けれど、心は不思議と満たされていた。
——救えた。三柱目の神を。あとは、浮上するだけ。
朦朧とする意識の中、わたくしは最後の力で錘を手放し、光さす水面へと昇りはじめた。
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