第65話 水底へ
潜行の朝が来た。
湖の中心へ、小舟で漕ぎ出す。
櫂を握るのは、村でいちばん腕の立つ漁師だ。
アルヴィスとわたくしが舟に乗り込む。
岸では、村人たちが祈るように見送っていた。
潜るのは、わたくし一人だった。
潜水具は、ひとり分しか作れなかった。
それに、神の“声”が届くのは《美食家の舌》を持つわたくしだけ。
——アルヴィスを置いていくのは、つらかった。
けれど、これはわたくしにしか、できないことだった。
「アルヴィス様。行ってきます」
「……ああ」
アルヴィスは、わたくしの肩を強く掴んだ。
「いいか、セラ。無茶を感じたら、すぐに戻れ。神を満たすより、お前の命のほうが大事だ。——必ず、戻ってこい」
「はい。必ず」
わたくしは頷き、首から二つの珠を下げ、革袋をくわえて石の錘を抱えた。
そして、灰色に淀んだ湖面へと、身を沈めた。
冷たい水が、全身を包み込む。
錘の重みで、体はぐんぐん沈んでいく。
水晶の眼鏡越しに見る水中の世界。それは、淀んだ灰色の闇だった。
光は、ほとんど届かない。濁りが視界を、白く塗りつぶす。
けれど——首元の二つの珠が淡く光り、わたくしの周りの水を清らかに照らし出してくれた。
ひと抱えほどの、清浄な光の輪。
それだけが、この暗い水底で、唯一の頼りだった。
革袋の空気を、ひと口ずつ大切に吸う。
耳が痛む。水の圧が、体を締めつける。
それでもわたくしは、ただ下へ下へと沈んでいった。清らかさの抜け落ちた、その中心へ。
沈みながら、唇に触れる水の“味”を、確かめ続けていた。
澱んで、苦い。
けれど——その奥に、ほんのかすかに、別の味が、残っている。
遠い昔の、清らかな水。
それと混じり合った、みずみずしい菱の実の優しい甘み。
きっと、人々が感謝とともにこの神へ捧げた、初穂の味だ。
澱みに覆われてもなお、《美食家の舌》は、その幸福な味の名残を確かに、すくい取っていた。
(……この味を、あなたは、忘れていない。きっと、まだ)
水の冷たさが、孤独を際立たせた。
雪山にはリーセが、砂漠にはカシムが隣にいた。けれど、この水底には、誰もいない。
ただ、わたくしと、暗い水だけ。
それでも、心は折れなかった。
岸で、アルヴィスがわたくしの帰りを信じて待っている。
その温もりだけは、この冷たい水の底にもちゃんと届いていた。
どれほど、沈んだだろう。
水は深くなるほど、淀みを増していった。
珠の光が照らす輪のすぐ外側は、もう何も見えない漆黒の闇。
その闇の中から、何か巨大なものの気配がにじみ出してくる。
肌が、ぞくりと粟立った。
——ここだ。間違いない。震源は、すぐ近く。
そのとき。珠の光が、ふっと揺らいだ。
濁りが、急に濃くなったのだ。神の渇きが強まる場所に近づいた、証だった。
光の輪が、みるみる小さくなる。視界が闇に、飲まれかける。
革袋の空気も、もう半分を切っていた。
(……急がないと)
焦りが胸をかすめる。けれど、ここで慌ててはいけない。
わたくしは心を落ち着けた。
珠を両手で包み、祈るように念じた。
——どうか、もう少しだけ、照らして。
応えるように、二つの珠がひときわ強く輝いた。濁りを押し返すように。
光の輪が、また広がる。
その光の向こうに。ついに、それが見えてきた。
湖の、最も深い底。そこに、それは横たわっていた。
巨大な水の塊。
いや、塊というには、あまりにおぼろげで——揺らめく水そのものが、意思を持ってうずくまっているような姿。
青く、深く、底知れない。
けれど、その体からは、清らかさとは正反対の、淀んだ澱のような気配が絶え間なく流れ出していた。
ノルドの氷の巨人。
サウディスの砂の巨人。
そして——ミルディアの、水の巨人。
三柱目の忘れられた神は、湖の底でひっそりと淀み、渇いていた。
『カエレ』
頭の中に、低い想念が響いた。やはり、わたくしの舌にだけ届く声。
『カエレ。誰モ、来ルナ。誰モ、我ヲ想ワヌ。誰モ、我ヲ必要トセヌ。ナラバ……コノ水モ、命モ、皆、淀ンデ朽チレバイイ』
深い、深い孤独と、諦めのにじむ声だった。
味の神は、飢え。潤いの神は、渇き。
そして、この水の神を蝕んでいるのは——孤独の果ての“諦め”だった。
もう誰にも必要とされないのなら、すべて朽ちてしまえばいい、という。
その諦めは、飢えや渇きよりも、ずっと深く冷たかった。
その諦めの奥から、ひとひらの記憶が、流れ込んできた。
——遠い昔。この神は、誰よりも人に近かった。
澄んだ水を湧かせ、魚を育み、人々はその水辺に集って暮らしを築いた。
神は、人の笑い声が、好きだった。だから、ほかのどの神より人を近くで、見守り続けた。
それゆえ、忘れられたときの悲しみも、誰より深かった。
捧げ物が絶え、祈りが消え、それでも神は待った。
いつか、また、人が想い出してくれると信じて。
待って、待って、待ち続けて——けれど、誰も戻ってこなかった。
長い年月のすえ、神はついに信じることをやめた。
期待するから、裏切られる。ならば、何も望むまい、と。
その諦めが、澄んだ水を淀ませていったのだ。
胸が、締めつけられた。
いちばん人を愛した神が、いちばん深く傷ついていた。
革袋の空気が、いよいよ、心もとなくなってきた。
ひと呼吸ごとに、薄くなる。耳鳴りがして、視界の端がちらつく。
——時間がない。
それでも、わたくしは揺らめく水の神を、まっすぐに見つめた。
引くつもりはなかった。たとえ、息が続かなくても。
この諦めを、ほどく言葉を、伝えるまでは。
(……いいえ。あなたは、まだ必要とされています)
伝えなければ。この孤独な神に。
もう一度、想ってくれる者が、ここにいることを。
水底の対峙が——いま、始まろうとしていた。
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