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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第7章 水底の祈り

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第65話 水底へ

潜行の朝が来た。


湖の中心へ、小舟で漕ぎ出す。

櫂を握るのは、村でいちばん腕の立つ漁師だ。

アルヴィスとわたくしが舟に乗り込む。

岸では、村人たちが祈るように見送っていた。


潜るのは、わたくし一人だった。


潜水具は、ひとり分しか作れなかった。

それに、神の“声”が届くのは《美食家の舌》を持つわたくしだけ。

——アルヴィスを置いていくのは、つらかった。

けれど、これはわたくしにしか、できないことだった。


「アルヴィス様。行ってきます」


「……ああ」


アルヴィスは、わたくしの肩を強く掴んだ。


「いいか、セラ。無茶を感じたら、すぐに戻れ。神を満たすより、お前の命のほうが大事だ。——必ず、戻ってこい」


「はい。必ず」


わたくしは頷き、首から二つの珠を下げ、革袋をくわえて石の錘を抱えた。

そして、灰色に淀んだ湖面へと、身を沈めた。


冷たい水が、全身を包み込む。


錘の重みで、体はぐんぐん沈んでいく。

水晶の眼鏡越しに見る水中の世界。それは、淀んだ灰色の闇だった。

光は、ほとんど届かない。濁りが視界を、白く塗りつぶす。


けれど——首元の二つの珠が淡く光り、わたくしの周りの水を清らかに照らし出してくれた。

ひと抱えほどの、清浄な光の輪。

それだけが、この暗い水底で、唯一の頼りだった。


革袋の空気を、ひと口ずつ大切に吸う。

耳が痛む。水の圧が、体を締めつける。

それでもわたくしは、ただ下へ下へと沈んでいった。清らかさの抜け落ちた、その中心へ。


沈みながら、唇に触れる水の“味”を、確かめ続けていた。


澱んで、苦い。

けれど——その奥に、ほんのかすかに、別の味が、残っている。


遠い昔の、清らかな水。

それと混じり合った、みずみずしい菱の実の優しい甘み。

きっと、人々が感謝とともにこの神へ捧げた、初穂の味だ。


澱みに覆われてもなお、《美食家の舌》は、その幸福な味の名残を確かに、すくい取っていた。


(……この味を、あなたは、忘れていない。きっと、まだ)


水の冷たさが、孤独を際立たせた。

雪山にはリーセが、砂漠にはカシムが隣にいた。けれど、この水底には、誰もいない。


ただ、わたくしと、暗い水だけ。

それでも、心は折れなかった。


岸で、アルヴィスがわたくしの帰りを信じて待っている。

その温もりだけは、この冷たい水の底にもちゃんと届いていた。


どれほど、沈んだだろう。


水は深くなるほど、淀みを増していった。

珠の光が照らす輪のすぐ外側は、もう何も見えない漆黒の闇。

その闇の中から、何か巨大なものの気配がにじみ出してくる。


肌が、ぞくりと粟立った。


——ここだ。間違いない。震源は、すぐ近く。


そのとき。珠の光が、ふっと揺らいだ。

濁りが、急に濃くなったのだ。神の渇きが強まる場所に近づいた、証だった。


光の輪が、みるみる小さくなる。視界が闇に、飲まれかける。

革袋の空気も、もう半分を切っていた。


(……急がないと)


焦りが胸をかすめる。けれど、ここで慌ててはいけない。

わたくしは心を落ち着けた。


珠を両手で包み、祈るように念じた。

——どうか、もう少しだけ、照らして。


応えるように、二つの珠がひときわ強く輝いた。濁りを押し返すように。

光の輪が、また広がる。


その光の向こうに。ついに、それが見えてきた。


湖の、最も深い底。そこに、それは横たわっていた。


巨大な水の塊。

いや、塊というには、あまりにおぼろげで——揺らめく水そのものが、意思を持ってうずくまっているような姿。


青く、深く、底知れない。

けれど、その体からは、清らかさとは正反対の、淀んだ澱のような気配が絶え間なく流れ出していた。


ノルドの氷の巨人。

サウディスの砂の巨人。

そして——ミルディアの、水の巨人。


三柱目の忘れられた神は、湖の底でひっそりと淀み、渇いていた。


『カエレ』


頭の中に、低い想念が響いた。やはり、わたくしの舌にだけ届く声。


『カエレ。誰モ、来ルナ。誰モ、我ヲ想ワヌ。誰モ、我ヲ必要トセヌ。ナラバ……コノ水モ、命モ、皆、淀ンデ朽チレバイイ』


深い、深い孤独と、諦めのにじむ声だった。


味の神は、飢え。潤いの神は、渇き。

そして、この水の神を蝕んでいるのは——孤独の果ての“諦め”だった。


もう誰にも必要とされないのなら、すべて朽ちてしまえばいい、という。

その諦めは、飢えや渇きよりも、ずっと深く冷たかった。


その諦めの奥から、ひとひらの記憶が、流れ込んできた。


——遠い昔。この神は、誰よりも人に近かった。

澄んだ水を湧かせ、魚を育み、人々はその水辺に集って暮らしを築いた。

神は、人の笑い声が、好きだった。だから、ほかのどの神より人を近くで、見守り続けた。


それゆえ、忘れられたときの悲しみも、誰より深かった。

捧げ物が絶え、祈りが消え、それでも神は待った。

いつか、また、人が想い出してくれると信じて。


待って、待って、待ち続けて——けれど、誰も戻ってこなかった。


長い年月のすえ、神はついに信じることをやめた。

期待するから、裏切られる。ならば、何も望むまい、と。

その諦めが、澄んだ水を淀ませていったのだ。


胸が、締めつけられた。

いちばん人を愛した神が、いちばん深く傷ついていた。


革袋の空気が、いよいよ、心もとなくなってきた。


ひと呼吸ごとに、薄くなる。耳鳴りがして、視界の端がちらつく。

——時間がない。


それでも、わたくしは揺らめく水の神を、まっすぐに見つめた。

引くつもりはなかった。たとえ、息が続かなくても。


この諦めを、ほどく言葉を、伝えるまでは。


(……いいえ。あなたは、まだ必要とされています)


伝えなければ。この孤独な神に。

もう一度、想ってくれる者が、ここにいることを。


水底の対峙が——いま、始まろうとしていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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