第64話 水底への道
湖の底へ、どうやってたどり着くか。
宿に戻ってからも、わたくしはずっと考え続けていた。
前世の記憶を、丹念にたどる。
水に潜る技術。深い場所で息をする方法。
——料理人だった前世で、直接、潜水を学んだわけではない。
けれど市場で、漁師や海女から聞きかじった話なら、いくつも覚えていた。
「息を長く保つには。それから、濁った水の中でも、視界を確保するには……」
ぶつぶつと呟くわたくしを、アルヴィスが面白そうに眺めていた。
「相変わらず、お前の頭の中は騒がしいな」
「ふふ。ごめんなさい。——でも、もう少しで形になりそうなんです」
考えることは、苦ではなかった。むしろ、楽しかった。
どんなに無理に思える壁でも、前世の知識と、この土地の知恵を、ひとつずつ組み合わせていけば、必ず突破口は見えてくる。
それは、潰れかけた店を、何軒も立て直してきた、前世のわたくしが、骨身に刻んだ確信だった。
翌日、わたくしは村の漁師たちに、知恵を借りた。
「皆さんは、湖に深く潜ることは、ありますか?」
「ええ、菱の実を採るのに、多少は。ですが、せいぜいひと息のぶん。——あの底までとなりゃ、とても」
漁師たちは首を振った。
けれど、彼らの話の中に、ヒントは転がっていた。
ひとつは、潜水に使う重し。体を速く、深く沈めるための、石の錘。
もうひとつは、彼らが古くから使う、水中を見るための、磨いた水晶の覗き眼鏡。
——前世の知識と組み合わせれば、いける。
紙に、図を描きはじめた。
空気をためる革袋。
それを口にくわえる管。
重しで沈み、水晶の眼鏡で視界を確保し、革袋の空気で息をつなぐ。
——簡素だけれど、原理は前世の潜水具と同じだ。
ふと、その仕組みを考えながら、わたくしは前世の厨房を思い出していた。
腸詰めを作るとき。
肉を詰めた腸の皮に、空気が入らないよう隙間なく縛り、口を固く結ぶ。
あの、空気の通り道を緻密に塞ぎ、操る技術。
革袋に空気を閉じ込め、管だけで出し入れする原理は、まさにあれと同じだった。
料理人の手仕事が、こんなところで命を守る道具に化ける。
——前世の経験は、ひとつとして、無駄にならない。
「これを、作れませんか。村の革職人と、ガラス職人の手を借りれば」
漁師たちが図を覗き込み、感嘆の声を上げた。
「こりゃあ……考えたこともなかった。なるほど、これなら長く潜れるかもしれん」
けれど、もうひとつ、大きな問題があった。
濁った水だ。
湖の水は、清らかさを失い、淀みきっている。
あの中を深く潜れば、毒のような水が肌を冒し、目を傷めるだろう。
革袋の空気にも、限りがある。
——ただ潜るだけでは、神のもとへ着く前に力尽きてしまう。
「水を清める手立ても、要りますね」
考え込んだ。そして、ふと、胸元の二つの珠に手を触れた。
味の神と、潤いの神の加護の証。
——もしかしたら。
試しに、わたくしは濁った湖の水を桶に汲み、二つの珠をそっと浸してみた。
すると。珠が淡く光り、その光が桶の水に広がっていく。
みるみるうちに、灰色に濁っていた水が——透き通った、清らかな水へと変わっていった。
「……これは!」
二柱の神の力は、同胞の神が奪った“清らかさ”を、取り戻す力を持っていた。
この珠の光があれば、潜る道の周りの水を清めながら、進める。
「道が、繋がりました」
わたくしは確信して、顔を上げた。
「前世の知識で、潜る道具を。漁師さんの知恵で、それを形に。そして、二つの珠の加護で、水を清めながら進む。——これなら、湖の底まで届きます」
ばらばらだった手がかりが、ひとつの線に繋がる、この瞬間。
それは、料理で、てんでばらばらの食材が、ひと皿にまとまる瞬間に、よく似ていた。
それから、数日。
村の職人たちが総出で、潜水具を仕上げてくれた。
革袋の空気入れ。水晶の眼鏡。石の錘。
素朴だけれど、心のこもった道具たち。
「奥方様。これで、湖を救ってくだせえ」
職人たちのまなざしは、真剣だった。
彼らもまた、湖とともに生きてきた人々。
その湖を救う道具を、自らの手で作れることに、誇りと祈りを込めていた。
「ありがとうございます。——必ず、清らかな湖を取り戻してみせます」
道具を、しっかりと受け取った。
前世の知識。現地の知恵。職人たちの想い。二柱の神の加護。
——すべてがひとつに繋がって、湖の底への道を切り拓いた。
本番の前に、わたくしは浅瀬で試運転を行った。
革袋をくわえ、石の錘を抱えて、ゆっくり身を沈める。
冷たい水が体を包む。
水晶の眼鏡越しに見る水中は、思いのほか、はっきり見えた。
革袋の管から、空気がちゃんと送られてくる。
——いける。
けれど、すぐに問題も見つかった。
濁った水に入った途端、視界が白く濁る。眼鏡があっても、淀んだ水そのものは、晴れない。
そこで、わたくしは二つの珠を、首から下げた紐に結びつけた。
すると、珠の光が周囲の水を、半径ひと抱えほど清らかに照らし出す。
まるで、暗い海を行く、提灯のように。
「これで、進む先が、見える」
水面に顔を出し、わたくしは息をついた。
岸で見守っていたアルヴィスが、ほっとした顔で手を差し伸べてくれる。
「……肝が冷えたぞ。お前が、水に沈んでいくのを見るのは」
「ふふ。でも、ちゃんと戻ってきました。——道具も珠も、完璧です」
何度か潜っては、調整を繰り返す。
空気のもち時間。錘の重さ。珠の照らす範囲。
一つひとつを確かめ、煮詰めていく。
料理の味を調えるのと、同じだった。妥協は、しない。
命がかかっているのだから、なおさらだ。
「アルヴィス様。——いよいよ、ですね」
「ああ。……だが、無理はするなよ」
アルヴィスの顔に、わずかな不安がよぎる。
「水の中では、おれの剣もろくに振るえん。お前を守りきれるか……」
「大丈夫です」
わたくしは微笑んだ。
「あなたが見ていてくれる。それだけで、わたくしは強くなれますから」
灰色に淀んだ、大湖の底へ。三柱目の、忘れられた神のもとへ。
——アルヴィスの眼差しを背に受けて、わたくしは、深く息を吸い込んだ。
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