第63話 東の水辺
東へ向かう旅は、これまでとはまた趣が違った。
雪も砂もない。
緑の濃いなだらかな丘陵地帯を、馬車は軽やかに進んでいく。
川が増え、空気が湿り気を帯びてくると、やがて行く手にそれは現れた。
「……海、ではないのですね」
見渡すかぎりの水。けれど、潮の香りはない。
果てが見えないほど広大な、淡水の湖だった。
「東方一の大湖、ミルディアと申します」
道案内に雇った地元の漁師が、誇らしげに言った。
「この湖の恵みで、周りの村々は代々、栄えてまいりました。魚も、水鳥も、菱の実も。湖が、わたしらを育ててくれたのです。——けれど、今は」
漁師の顔が、曇った。
湖畔の村に着いて、わたくしは異変の“形”を、すぐに理解した。
水が、濁っていた。
かつて底まで透き通っていたという、ミルディアの水。
それが今は、どんよりと淀んで灰色がかっている。
岸辺には、腹を見せた魚が点々と浮かび、饐えた臭いを放っている。
水鳥の姿も、まばらだ。豊かだった湖が、ゆっくりと死につつあった。
「魚が、獲れなくなりました」
村長が力なく語った。
「獲れても、口にすれば腹を下す。水も、飲めたものじゃない。湖の水を引いていた畑も、次々と枯れていく。——わしらは湖とともに、生きてきた。その湖に、見放されちまった」
その絶望の顔は、ヴァルドでもノルドでもサウディスでも、何度も見てきたものだった。
土地は違えど、恵みを奪われた人の嘆きは、いつも同じだった。だからこそ、見過ごせない。
わたくしは湖のほとりに膝をつき、手のひらでそっと水をすくった。
《美食家の舌》で、感じ取る。——濁った水の中の、“真価”を。
すると、見えてきた。
これは、ただ汚れているのではない。
水が本来持つはずの“清らかさ”、命を潤す力が抜け落ちている。
ノルドで味が、サウディスで実りが消えたように。
ここでは——水の、“清らかさ”そのものが、失われていた。
(……やはり。これも、神様の仕業)
水を司る、忘れられた神。
それが、またどこかで渇き、飢え、暴走している。
三柱目の悲劇の神だ。胸元の珠が、応えるようにかすかに脈打った。
「アルヴィス様。間違いありません。これも、同じです」
わたくしは立ち上がり、告げた。
「忘れられた水の神。それが、この大湖の清らかさを奪っている」
「ふむ。……だが、今回は、勝手が違うな」
アルヴィスが、広大な湖を見渡した。
「ノルドの山、サウディスの砂漠は、震源へ歩いて向かえた。だが、これだけ広い湖だ。神がどこにいるのか、——見当もつかん」
確かに、そうだった。見渡すかぎりの水。
このどこかに、神は潜んでいる。
けれど、その“どこか”を特定しなければ、近づきようがない。
「大丈夫です」
わたくしは微笑んだ。
「いつもやっていることと、同じ。——水の“味”をたどればいいんです」
小舟を借り、漁師の櫂で湖のあちこちを巡る。
岸辺の水、沖の水、入り江の水。
すくっては確かめ、清らかさの抜け落ち方の濃淡を《美食家の舌》で読み取っていく。
ノルドで味の地図を、サウディスで命の濃淡を描いたように。
今度は、湖の“清らかさ”の地図を描くのだ。
そして、見えてきた。
濁りが最も濃い場所。清らかさが根こそぎ失われている、一点。
「……湖の中心。さらに、その深い、底」
灰色の水面の彼方を、見つめる。
「あそこに、水の神様が沈んでいます。——でも」
そこで、わたくしははたと気づいた。
「どうやって、湖の底まで……?」
雪山も砂漠も、過酷ではあったけれど、地面の上を進めばよかった。
けれど今度の震源は、広大な湖の深い底。人の足では、たどり着けない場所だった。
潜るにしても、濁りきった水の中、息の続くはずもない。
岸へ戻り、わたくしは村の古老たちに、湖の言い伝えを尋ねた。
ノルドの“眠りの山”、サウディスの“大砂漠”のように。この地にも、何か、残されているはず。
果たして、最年長の老婆がしわがれた声で、語ってくれた。
「ミルディアの、底にはな。昔から、“水底の主”が、棲むと言われておる。湖に清らかな水を満たしてくださる、ありがたい御方だと。わしらの先祖は、年に一度、初穂を湖に沈めて、感謝を捧げておった。……だが、いつの頃からか、その習わしも廃れてのう。今じゃ、覚えとる者も、わしくらいだ」
その言葉に、確信した。やはり、同じだ。
忘れられ、感謝を絶たれた神が、渇き、暴走する。
——三たび、繰り返された、悲しい構図。
「水底の主へ、初穂を沈めて、感謝を捧げる……」
その風習を、胸に刻んだ。きっと、そこに神を鎮める鍵がある。
忘れられた神は、ただもう一度、想われ、感謝されることを求めているのだから。
「……でも、まずは、あの底まで届く手立てですね」
新たな異変は、新たな難題を突きつけてきた。
けれど、わたくしは不思議と、焦ってはいなかった。
「こういうときこそ、知恵の出しどころです」
わたくしは苦笑して、アルヴィスを見た。
「ヴァルドでも、ノルドでも、サウディスでも。無理だと思えたことを、前世の知識と土地の知恵を合わせて、乗り越えてきました。——今度も、きっと、道はあります」
水の神の待つ湖の底へ。——その道を、どう切り拓くか。
腕が鳴る、と、わたくしは静かに微笑んだ。難題ほど、解いたときの喜びは大きいのだから。
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