表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【7/5 7AMに最終話投稿予定】追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第7章 水底の祈り

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/122

第62話 春のヴァルド

東の水辺へ発つまでの、しばしの時間を、わたくしたちはヴァルドで過ごした。


英気を養うため、と言いつつ、わたくしは結局、じっとしてはいられなかった。

留守の間に溜まった領地の仕事を片づけ、新しい畑の様子を見て回り、村々を訪ねて歩く。


アルヴィスは「少しは休め」と呆れ顔だったけれど、こうして自分の足で領地を歩くことが、わたくしには何よりの休息だった。


ヴァルドは、見違えるほど豊かになっていた。


かつて痩せていた畑は、青々とした作物で埋まり、漁村には活気のある掛け声が響く。

村人たちの顔は、ふっくらと血色がよく、子どもたちはよく笑い、よく食べる。


一年半前、わたくしが嫁いできたときの、あの飢えと諦めに沈んだヴァルドは、もうどこにもなかった。


「奥方様のおかげで、おらたちは人間らしい暮らしを、取り戻せました」


芋村のゴルドが、しみじみと言う。わたくしは首を振った。


「わたくしは、きっかけを作っただけ。——豊かにしたのは、皆さん自身の頑張りですよ」


土を耕し、知恵を分け合い、自分たちの手で実りを育てる。

その喜びを、一度知った人々は、もう、誰かに与えられるのを待つだけの民ではなかった。


わたくしが世界の果てを旅している間も、ヴァルドは自らの力で、豊かさを育み続けていた。それが、何より誇らしかった。


村の広場では、マルクが移り住んだ料理人仲間とともに、屋台を出していた。


味噌で煮込んだ串焼き。

魚醤を効かせた香ばしい焼き飯。

ヴァルド特産の保存食を使った手軽な惣菜。


かつて宮廷で腕を振るった料理人たちが、今は庶民のための味を、嬉々として作っている。


「奥方様! ひとつ、味見していってください」


差し出された串焼きを、ひと口。

とろけた味噌の甘辛さと肉の旨味が、口いっぱいに広がる。


——おいしい。文句なく、おいしい。


「マルクさん、腕を上げましたね。……いいえ、わたくしの教えたものより、ずっと、おいしくなっています」


「へへ、恐れ入ります。——でも、これでいいんでしょう? 料理は受け継がれて、その土地で育っていく。奥方様が、そう教えてくださった」


その言葉に、胸が熱くなった。

わたくしの蒔いた種は、もうわたくしの手を離れて、立派に根を張り、花を咲かせていた。


ある日、わたくしは、村の子どもたちを集めて、料理を教えた。


ニルスのことが、頭にあった。

ノルドのあの少年が、「料理人になりたい」と言ってくれた、あの言葉。


料理の楽しさ、食べる喜びを、次の世代へ。

それは、わたくしにできる、ささやかな、けれど確かな種まきだった。


「いいですか。お料理でいちばん大切なのは、食べてくれる人を想うことです」


かまどを囲んだ子どもたちが、目を輝かせて頷く。


慣れない手つきで野菜を切り、おそるおそる鍋をかき混ぜる。

焦がしたり、塩を入れすぎたりしながらも、できあがった素朴なスープを、誇らしげに親へ運んでいく。


「おいしい」と褒められて、はにかむ子どもたちの笑顔。

それを見ていると、胸がじんわりとあたたかくなった。


この子たちの中から、いつか、料理で誰かを笑顔にする人が生まれるかもしれない。

そうやって、あたたかい食卓は受け継がれていく。


——たとえ、わたくしがいなくなっても。

それは、わたくしがこの世界に遺せる、いちばん優しい財産だった。


その夜。月の綺麗な、静かな夜だった。


館の露台で涼んでいると、アルヴィスが、葡萄酒の杯を二つ手に、隣へ来た。


「……少しは、休めたか」


「ふふ。おかげさまで。——あなたと、こうしている時間が、いちばんの休息です」


杯を傾けながら、二人で月を眺める。

出会った頃の凍りついた沈黙が、嘘のようだった。

今は、言葉がなくても、ただ隣にいるだけで満たされる。


「なあ、セラ」


アルヴィスが、ふと口を開いた。


「この旅がすべて終わったら。——おれたちは、どうなるのだろうな」


その問いに、わたくしは少し驚いて、彼を見た。

いつも泰然としている彼が、めずらしく感傷的だった。


「忘れられた神を巡る旅。“あのお方”との対峙。……正直、終わりが見えん。だが、いつか必ず終わらせる。そのときは——」


彼は、わたくしの手を取った。


「このヴァルドで、ただお前と、穏やかに暮らしたい。お前の作る飯を食って、くだらん話をして、笑って。……そんな、何でもない日々を、死ぬまで」


その不器用な告白に、胸がいっぱいになった。

氷の死神と恐れられたこの人が。今は、何でもない日々を願っている。

それが、たまらなく愛おしかった。


「……ええ。必ず、そうしましょう。約束です」


わたくしは、彼の肩にそっと頭を預けた。

守りたい未来が、ここにある。だからこそ、戦える。迫りくる、どんな大きな謎にも。


けれど、穏やかな時間は、長くは続かなかった。


数日後。東の空が、不穏な色に染まりはじめた。


胸元の二つの珠が、にわかに熱を帯び、警告するように激しく明滅する。

あの“地図”で見た、東の水辺の光点。それが——ついに、赤黒く燃え上がろうとしていた。


「……始まりますね。次の、異変が」


わたくしは東の空を見据えた。

穏やかな休息は、終わり。ふたたび、旅立ちのときが来たのだ。


「アルヴィス様。——行きましょう。次の、忘れられた神様が、待っています」


英気は、十分に養った。守りたいものも、この胸にしっかりと刻んだ。

東の水辺で、何がわたくしたちを待つのか。

——さあ、次の土地へ。馬車の轍が、また一つ、新しい道を刻んでいく。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ