第62話 春のヴァルド
東の水辺へ発つまでの、しばしの時間を、わたくしたちはヴァルドで過ごした。
英気を養うため、と言いつつ、わたくしは結局、じっとしてはいられなかった。
留守の間に溜まった領地の仕事を片づけ、新しい畑の様子を見て回り、村々を訪ねて歩く。
アルヴィスは「少しは休め」と呆れ顔だったけれど、こうして自分の足で領地を歩くことが、わたくしには何よりの休息だった。
ヴァルドは、見違えるほど豊かになっていた。
かつて痩せていた畑は、青々とした作物で埋まり、漁村には活気のある掛け声が響く。
村人たちの顔は、ふっくらと血色がよく、子どもたちはよく笑い、よく食べる。
一年半前、わたくしが嫁いできたときの、あの飢えと諦めに沈んだヴァルドは、もうどこにもなかった。
「奥方様のおかげで、おらたちは人間らしい暮らしを、取り戻せました」
芋村のゴルドが、しみじみと言う。わたくしは首を振った。
「わたくしは、きっかけを作っただけ。——豊かにしたのは、皆さん自身の頑張りですよ」
土を耕し、知恵を分け合い、自分たちの手で実りを育てる。
その喜びを、一度知った人々は、もう、誰かに与えられるのを待つだけの民ではなかった。
わたくしが世界の果てを旅している間も、ヴァルドは自らの力で、豊かさを育み続けていた。それが、何より誇らしかった。
村の広場では、マルクが移り住んだ料理人仲間とともに、屋台を出していた。
味噌で煮込んだ串焼き。
魚醤を効かせた香ばしい焼き飯。
ヴァルド特産の保存食を使った手軽な惣菜。
かつて宮廷で腕を振るった料理人たちが、今は庶民のための味を、嬉々として作っている。
「奥方様! ひとつ、味見していってください」
差し出された串焼きを、ひと口。
とろけた味噌の甘辛さと肉の旨味が、口いっぱいに広がる。
——おいしい。文句なく、おいしい。
「マルクさん、腕を上げましたね。……いいえ、わたくしの教えたものより、ずっと、おいしくなっています」
「へへ、恐れ入ります。——でも、これでいいんでしょう? 料理は受け継がれて、その土地で育っていく。奥方様が、そう教えてくださった」
その言葉に、胸が熱くなった。
わたくしの蒔いた種は、もうわたくしの手を離れて、立派に根を張り、花を咲かせていた。
ある日、わたくしは、村の子どもたちを集めて、料理を教えた。
ニルスのことが、頭にあった。
ノルドのあの少年が、「料理人になりたい」と言ってくれた、あの言葉。
料理の楽しさ、食べる喜びを、次の世代へ。
それは、わたくしにできる、ささやかな、けれど確かな種まきだった。
「いいですか。お料理でいちばん大切なのは、食べてくれる人を想うことです」
かまどを囲んだ子どもたちが、目を輝かせて頷く。
慣れない手つきで野菜を切り、おそるおそる鍋をかき混ぜる。
焦がしたり、塩を入れすぎたりしながらも、できあがった素朴なスープを、誇らしげに親へ運んでいく。
「おいしい」と褒められて、はにかむ子どもたちの笑顔。
それを見ていると、胸がじんわりとあたたかくなった。
この子たちの中から、いつか、料理で誰かを笑顔にする人が生まれるかもしれない。
そうやって、あたたかい食卓は受け継がれていく。
——たとえ、わたくしがいなくなっても。
それは、わたくしがこの世界に遺せる、いちばん優しい財産だった。
その夜。月の綺麗な、静かな夜だった。
館の露台で涼んでいると、アルヴィスが、葡萄酒の杯を二つ手に、隣へ来た。
「……少しは、休めたか」
「ふふ。おかげさまで。——あなたと、こうしている時間が、いちばんの休息です」
杯を傾けながら、二人で月を眺める。
出会った頃の凍りついた沈黙が、嘘のようだった。
今は、言葉がなくても、ただ隣にいるだけで満たされる。
「なあ、セラ」
アルヴィスが、ふと口を開いた。
「この旅がすべて終わったら。——おれたちは、どうなるのだろうな」
その問いに、わたくしは少し驚いて、彼を見た。
いつも泰然としている彼が、めずらしく感傷的だった。
「忘れられた神を巡る旅。“あのお方”との対峙。……正直、終わりが見えん。だが、いつか必ず終わらせる。そのときは——」
彼は、わたくしの手を取った。
「このヴァルドで、ただお前と、穏やかに暮らしたい。お前の作る飯を食って、くだらん話をして、笑って。……そんな、何でもない日々を、死ぬまで」
その不器用な告白に、胸がいっぱいになった。
氷の死神と恐れられたこの人が。今は、何でもない日々を願っている。
それが、たまらなく愛おしかった。
「……ええ。必ず、そうしましょう。約束です」
わたくしは、彼の肩にそっと頭を預けた。
守りたい未来が、ここにある。だからこそ、戦える。迫りくる、どんな大きな謎にも。
けれど、穏やかな時間は、長くは続かなかった。
数日後。東の空が、不穏な色に染まりはじめた。
胸元の二つの珠が、にわかに熱を帯び、警告するように激しく明滅する。
あの“地図”で見た、東の水辺の光点。それが——ついに、赤黒く燃え上がろうとしていた。
「……始まりますね。次の、異変が」
わたくしは東の空を見据えた。
穏やかな休息は、終わり。ふたたび、旅立ちのときが来たのだ。
「アルヴィス様。——行きましょう。次の、忘れられた神様が、待っています」
英気は、十分に養った。守りたいものも、この胸にしっかりと刻んだ。
東の水辺で、何がわたくしたちを待つのか。
——さあ、次の土地へ。馬車の轍が、また一つ、新しい道を刻んでいく。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




