第61話 二つの珠
ヴァルドへ帰り着くと、季節はすっかり、春へと移ろっていた。
雪が解け、土がぬくもり、村々の畑に青々とした芽が顔を出している。
サウディスから戻ったわたくしたちを、領民たちはいつものようにあたたかく迎えてくれた。
「奥方様、おかえりなさい! 南の国まで行かれたとか。ご無事で何よりです!」
ハンスが商売の荷を担いだまま、駆け寄ってくる。
セバスも、マルクたちも、村の女たちも。
その笑顔を見ていると、ようやく肩の力が抜けた。
ここが、わたくしの帰る場所。何度、世界の果てへ旅立っても、必ずここへ戻る。
その夜は、また、ささやかな宴になった。
春の芽吹きの恵みをふんだんに使った料理。
山菜のほろ苦さを、味噌でまろやかに包んだ和え物。
新鮮な川魚を香ばしく焼いた一品。
具だくさんのあたたかな汁物。
湯気の向こうで、村人たちが夢中で頬張り、笑い、語らう。
その光景こそ、わたくしが命がけで守りたいものだった。
ノルドの味、サウディスの潤い。
世界の理が綻ぶ現場を見てきたからこそ、この当たり前の食卓がどれほど尊いか、痛いほど分かる。
「やっぱり、ヴァルドの飯がいちばんだなあ」
ハンスが、しみじみと言う。わたくしは笑って頷いた。
「ええ。——どんな国の、どんなごちそうより。ここで、みんなと食べるごはんが、いちばんおいしいです」
アルヴィスが隣で、ふっと目を細めた。
「……お前のその言葉を聞くと、おれも、帰ってきたと、実感する」
その一言に、胸がじんとあたたかくなる。長い旅の疲れが、すっと溶けていく。
宴が落ち着いた、夜更け。
わたくしは自室で、二つの珠を机に並べていた。
ノルドの味の神が遺した淡く光る珠。
サウディスの潤いの神が遺した青くみずみずしい珠。
——二柱の、忘れられた神々の、加護の証。
並べて見つめていると、不思議なことが起きた。
二つの珠が、互いに呼応するように淡く明滅しはじめた。
そして、その光がゆっくり混ざり合い——空中に、ぼんやりと、ある“像”を結んだ。
「……これは」
それは、地図だった。
この世界の、おぼろげな全体像。
その上に、いくつもの小さな光点が瞬いている。
よく見れば、光点の色はまちまちだった。
あるものは消えかけて弱々しく、あるものは不穏に赤黒い。
(……まさか、これは)
直感が告げた。これは世界に眠る、“神々”の在り処。
味の神。潤いの神。——それと同じ、忘れられた古い神々が、世界にはまだこれほどたくさん。
周辺の光のいくつかは、すでに暴走の兆しを——赤黒い色を、帯びはじめている。
肌が、ぞくりと粟立った。
ノルドと、サウディスは、始まりにすぎなかった。
世界中で、忘れられた神々が次々と綻びかけている。
このまま放っておけば、味が、潤いが消えたように——世界のあちこちで、それぞれの“理”が崩れていく。
食べる喜びも、命を育む力も、少しずつこの世界から失われていく。
考えるだけで、背筋が寒くなった。
けれど、目をそらすわけにはいかなかった。
この“地図”を視ることができるのは、《美食家の舌》を持つ、わたくしだけなのだから。
「アルヴィス様」
わたくしは、隣の部屋のアルヴィスを呼んだ。彼にも、この“地図”を見せる。
彼の目には、珠の光は見えても像までは、はっきり見えないようだった。
けれど、わたくしの説明に、表情を険しくした。
「……世界中に、まだそれほどの数が眠っていると」
「ええ。そして、そのいくつかは、もう暴れ出しかけています。——わたくしたちが、ノルドとサウディスで見たように」
わたくしは地図の中心あたりを、指さした。
そこには、ひときわ大きく、けれど深く沈んだ闇のような“点”があった。
他の光点とは、まるで格が違う。
すべての綻びの根のような、不気味な存在感だった。
「傷口の、中心……きっと」
声が、震えた。
「宰相の言っていた、“あのお方”。——世界の理そのものに関わる、根源の存在」
二つの珠が、まるで警告するように、その闇の点へ向かって強く明滅した。
世界の謎の全体像が、今、おぼろげに、けれど確かに、わたくしの前に姿を現していた。
「……ですが、いきなり“あのお方”へ、というわけには、いきません」
わたくしは、地図の光点をひとつひとつ、見極めていった。
「まずは、暴走しかけている神々を一柱ずつ、鎮めていくしかない。放っておけば、また、ノルドやサウディスのような悲劇が繰り返されます」
赤黒く染まりかけた光点の中で、ひときわ強く不穏に脈打つものがあった。
場所は——ヴァルドから、それほど遠くない。
東の大きな水辺。湖か、あるいは、海の近く。
「この光点が、いちばん危ない。次に綻びるのは、おそらくここです」
「では、次は、そこへ向かう、ということだな」
「ええ。——でも、その前に」
わたくしは地図から目を上げ、窓の外の穏やかなヴァルドの夜を見た。
「少しだけ、ここで、英気を養いましょう。旅は長くなります。それに、領地のことも村のみんなのことも、しばらく見ていなかったぶん、ちゃんと向き合っておきたいんです」
慌てて飛び出すより、足元を固めてから。
それが、何度も再建を成し遂げてきたわたくしの流儀だった。
旅は、まだ終わらない。いいえ——本当の戦いは、これから始まる。
忘れられた神々を巡る旅。そして、その果てに待つ“あのお方”との対峙へ。
わたくしは、二つの珠をそっと握りしめた。
その手に、アルヴィスの大きな手が静かに重ねられる。
「何が待っていようと、二人でだ。——どこまでも、付き合うさ」
その温もりが、迫りくる謎への不安を、そっと溶かしてくれた。
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