第59話 命のしずく
「命のしずく」を携えて、わたくしはふたたび、窪地の底へ下りた。
砂の神は、もう限界が近かった。
胸元の珠が必死になだめてはいたが、その渦はふたたび激しさを増しつつある。
一刻の猶予もない。
わたくしは器に注いだ「命のしずく」を、砂の巨人の前にそっと捧げた。
「お待たせしました。——これが、あなたへの捧げ物です。砂漠中の命が、その身を削って蓄えた生きた潤い。それを、ひと匙に凝縮しました。どうか、受け取ってください」
砂の渦が、ぴたりと止まった。
巨人のうつろな“顔”が、ゆっくりと器へ傾く。
そして——立ちのぼる潤いの香気を、すうっと感じ取った。
——コレハ。
想念が震えた。
——命ノ……潤イ。生キタ水ノ、香リ。我ガ、ズット求メテイタ……。
◇
だが次の瞬間、砂の巨人の体が、ぐらりと揺れた。
長い渇きと飢えで歪みきった本能が、目の前の潤いをただ貪り尽くそうと暴れ出す。
渦が、爆発的に膨れ上がった。
「セラ! 危ない!」
巨大な砂の腕が、わたくしごと捧げ物を呑み込もうと振り下ろされる。
刹那、アルヴィスが動いた。
「させるか——!」
地を蹴り、剣を一閃。
鋭い剣風が、迫る砂の腕を横ざまに薙ぎ払う。
砂が爆ぜて飛び散る。
けれど腕は、また無数の砂となって再生し襲いかってくる。
アルヴィスはわたくしの盾となり、次々とそれを斬り伏せていく。
巨大な砂の刃が彼の頬をかすめ、血が滲む。
それでも、彼は一歩も退かなかった。
「セラ、捧げ物を! おれが時間を稼ぐ!」
「はい——!」
わたくしは暴れる砂の中、器を両手でしっかり支え、必死に呼びかけた。
「聞いてください! あなたは、貪る必要なんてないんです! 奪わなくても、潤いはちゃんとここにあります!
これは——あなたのために、心を込めて用意した、贈り物なんですから!」
◇
その言葉が、荒れ狂う砂の神の、奥深くに届いた。
——贈リ、物……?
巨人の動きが止まる。
砂の腕が、空中で静止した。
——我ニ……? 誰カガ、我ノタメニ……?
「ええ。そうです」
わたくしは微笑んで、器を差し出した。
「あなたは忘れていただけ。誰かがあなたを想って捧げてくれる、その喜びを。——どうぞ。今度は奪うのではなく、受け取ってください」
巨人が、おそるおそる、器に“口”をつけた。
そして——「命のしずく」を、ひと口含んだ、その瞬間。
砂の神の全身が、淡い緑がかった光に包まれた。
——アア。
歓喜の想念がこぼれた。
——潤ウ。満チル。コレダ。命ノ喜ビ。我ガ与エ、人ガ感謝シ、マタ与エル……ソウダ、コレダッタ。我ハ、コレヲ忘レテイタ……。
長い渇きの果てに、その神もまた思い出したのだ。
奪うことではなく、与え、与えられる喜びを。
◇
砂の巨人を覆っていた、禍々しい渇きの気配が、すうっと晴れていく。
代わりに、あたたかな命の光が満ちていった。
そして奇跡が起きた。
巨人が、満たされたその身から、光の雫をこぼしはじめたのだ。
それは雨のように窪地へ降りそそぎ、乾ききった砂に染み込んでいく。
その雫が触れた砂が、色を変えた。
さらさらの死んだ砂から、しっとりと黒い、命を宿した土へと。
「……潤いが、還っていく」
わたくしは、その光景に息を呑んだ。
砂の神の力が、奪う力から、与える力へと反転したのだ。
ノルドのときと同じ。
渇いた神が満たされ、本来の優しい姿を取り戻していく。
降りそそぐ光の雫は、窪地だけにとどまらなかった。
あふれた潤いが、地の底を伝うように。
砂漠を越え、枯れた農地へ、王都へ、サウディスの国土の隅々へと広がっていく。
《美食家の舌》が、その流れを、はっきりと捉えていた。
命を奪われ、灰色に枯れていた大地に、今、みずみずしい命の気配が、一つ、また一つと灯り直していく。
やがて、砂の巨人は——その巨体を、静かに、ほどいていった。
無数の砂粒が、さらさらと崩れ、宙へ舞い上がる。
けれどそれは、消滅ではなかった。
役目を終えた神が、また長い眠りにつくための、安らかな還りだった。
——礼ヲ言ウ、人ノ子ヨ。
穏やかな想念が、最後に、響いた。
——我ハ、思イ出シタ。命ヲ育ム、本当ノ喜ビヲ。コノ大地ハ、モウ、枯レヌ。……汝ノ料理、決シテ忘レヌ。マタ、巡り会オウ。
砂がひときわ高く舞い上がり、その中心に、ちいさな淡く潤んだ光の珠が、ひとつ残された。
ノルドの味の神が遺したものと、よく似た、けれど、青くみずみずしい光をたたえた珠。
わたくしは、そっとそれを両手で受け止めた。
胸元のもう一つの珠が、応えるようにあたたかく瞬く。
二柱の神の加護が、今、わたくしの手の中に、揃った。
ふと隣を見れば、頬に血を滲ませたアルヴィスが、その奇跡を、まぶしそうに見つめていた。
わたくしは、そっと彼の手に触れる。
彼も、握り返してくれた。
——また、二人で、一つの世界を救えた。
枯れた、南の大地に。
——もう一度、命を育む潤いが、還ろうとしていた。
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