第57話 砂の底の存在
すり鉢状の窪地を、わたくしたちは慎重に下りていった。
底へ近づくほど、命を枯らす気配は濃くなる。
肌が、ぴりぴりと痛む。
砂を踏むたび、足元から命が吸い取られていくような、奇妙な感覚。
護衛たちは麓に残し、わたくしとアルヴィス、そしてカシムだけで進んだ。
そして、窪地のいちばん底。
渦巻く砂の、その中心に——それは、いた。
「……これは」
砂そのものが寄り集まり、形をなしていた。
巨大な砂の柱。
いや、柱ではない。
よく見れば、それはうずくまる巨人のような影だった。
全身が、さらさらと崩れてはまた集まる、無数の砂の粒でできている。
そしてその体の周りで、大地の命が砂となって吸い込まれ続けていた。
ノルドの味の神とは、まるで違う姿。
けれど、その本質に漂う気配は——どこか、よく似ていた。
◇
——カワク。
頭の中に、声が響いた。
やはりわたくしの《美食家の舌》にだけ届く想念。
——カワク。カワク。潤イガ欲シイ。命ノ、潤イガ。ナノニ、触レルモノ皆、砂ニナル。
その想念は、ノルドの味の神と同じ種類の飢えだった。
けれど、飢える対象が違う。
あの神が飢えていたのは“味”。
そしてこの存在が渇いているのは——“潤い”。
命の、みずみずしさ。
それそのものだった。
(……そうか。この方は)
直感が閃いた。
ノルドの神が“味”を司る者だったように。
この存在はきっと、大地に“潤い”を、実りを与える者。
命を育む、水と緑の神。
それが忘れられ、渇き、飢えて——触れるものすべてを砂に変える災いへと、堕ちてしまった。
応えるように、想念の奥から、古い記憶が、流れ込んできた。
——遠い昔。この地は、見渡すかぎりの緑だった。その神が大地に潤いを与え、川を巡らせ、作物を実らせていた。人々は初めての収穫のとき、その恵みに感謝し、みずみずしい果実を神へ捧げた。神はそれを喜び、また大地を潤した。そういう、優しい循環があったのだ。
けれど、時が流れ、人は神を忘れた。
捧げ物は絶え、感謝は消えた。
渇いた神は潤いを求めて彷徨い、けれど誰も応えてくれず——その渇きが、いつしか、大地から潤いを奪い返す力へと、歪んでいった。
その記憶が流れ込んだ瞬間、砂の巨人の“目”のあたりから、さらさらと、乾いた砂が、こぼれ落ちた。
それは、まるで、涙だった。
流したくても、もう、涙する潤いさえ残っていない。
乾ききった、砂の涙。
風に乗ったその一片が、わたくしの頬に触れ、ほろりと、伝い落ちた。
頬が、濡れた。
——わたくし自身の、涙で。
味の神と、寸分たがわぬ悲劇だった。
世界のあちこちで、忘れられた古い神々が、それぞれの“役割”を歪ませ、暴走している。
——これこそが、“理の綻び”の正体なのだ。
その気づきに、ぞくりと震えた。
ならば世界には、まだ他にも。
忘れられ、暴走しかけている神が、いくつも眠っているのかもしれない。
事の大きさが、改めてのしかかってくる。
◇
「アルヴィス様。やはり、同じです」
わたくしは振り返って告げた。
「ノルドの味の神と、同じ。——この方は、大地の“潤い”を司る神様。忘れられて、渇いて、暴走している」
「では……今回も、料理で?」
「ええ。けれど」
わたくしは、その砂の巨人を見上げた。
今度は簡単ではなさそうだった。
ノルドの神は“味”に飢えていた。
だから心のこもった料理を捧げれば、満たすことができた。
けれどこの神が渇いているのは“潤い”——命の、みずみずしさそのもの。
ただの水では、ないだろう。
乾ききった砂漠で、どうやって命の潤いに満ちた一皿を用意すればいいのか。
考えていた、そのとき。
——カワク……モウ、限界ダ。
砂の巨人の想念が、苦しげに歪んだ。
同時に、巨人の体がぐらりと揺らぎ、膨れ上がる。
渦巻く砂が激しさを増し、窪地全体が震動しはじめた。
「いかん、暴れるぞ! セラ、下がれ!」
吹き荒れる砂の礫が、アルヴィスの頬を切り裂いた。
鮮血が、宙に舞う。
それでも彼は、わたくしの前に立ちはだかり、剣を構え続けた。
「これ以上は、下がっていろ! ここは、おれが——!」
その傷だらけの背中を見て、わたくしは、胸を締めつけられた。
——けれど、同時に、悟ってもいた。
これは、剣でどうにかなる相手ではない。
刃を向ければ向けるほど、この神の渇きは、深まるだけ。
それに、この神に悪意はない。
あるのは、ただ耐えがたい、渇きの苦しみだけ。
必要なのは、刃ではない。
この飢えを、渇きを——わたくしたちが、丸ごと受け止める、覚悟だ。
「アルヴィス様、剣を引いてください! この方は、苦しんでいるだけ。——わたくしが、止めます!」
わたくしは、渦巻く砂の中へ一歩踏み出した。
胸元の珠が、強く熱く脈打つ。
まるで同胞の神に呼びかけるように。
「お願いです、聞いてください! あなたの渇きを満たす方法を、わたくしが必ず見つけます! だから——もう少しだけ、堪えてください!」
その叫びが届いたのか。
荒れ狂っていた砂が、ほんのわずかに勢いを緩めた。
胸元の珠の光が、砂の巨人へと淡く伸びていく。
味の神の加護が、渇いた同胞を、なだめているかのようだった。
その、つかの間の静けさの中で。
わたくしは、必死に頭を巡らせた。
“潤い”を満たす一皿。
命の、みずみずしさ。
——ただ水を飲ませても、きっと駄目だ。
この神が忘れているのは、味の神と同じ。
「人に与え、感謝され、また与える」という、あの優しい循環の記憶。
だとすれば、捧げるべきは、ただの水ではない。
人の手が、心が宿ったもの。
乾いた大地から、それでも人が、知恵と工夫で絞り出してきた——“命の潤い”の結晶だ。
(……何か、ある。この砂漠にも、きっと)
乾ききったこの地で、人々はどうやって生き延びてきたのか。
潤いを、どう得てきたのか。
——そこに、答えがあるはずだ。
わたくしは、すがるように、隣のカシムを見た。
砂漠を知り尽くした、この男なら。
けれど、それも長くはもたない。
一刻も早く、この渇いた神を満たす“一皿”を見つけ出さなければ。
灼熱の砂漠の底で。
わたくしの、新たな戦いが始まった。
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