第54話 砂の国へ
南の国サウディスへ向かう支度は、すぐに整った。
商人の話が本当なら、一刻の猶予もない。
大地が枯れ、砂へと変わっていく。
放っておけば、国がまるごと飢えて滅ぶ。
ノルドで見た、あの絶望を、もう二度と見過ごせなかった。
「セバス。留守を、また頼みます」
「お任せを。……ですが奥方様、今度の旅は、北とは逆の意味で過酷です。どうか、お気をつけて」
セバスの言うとおりだった。
今度向かうのは、灼熱の南。
雪山とは何もかもが違う。
けれどわたくしは、ヴァルドの保存食をたっぷりと荷に積んだ。
味の還ったそれは、どんな土地でも、人を支える力になる。
胸元には、あの淡く光る珠。
ノルドの味の神が遺した、加護の証。
それにそっと触れる。
きっと見守っていてくれる。
そんな気がした。
「行ってきます」
案内役には、あの商人が立ってくれた。
だいぶ回復して、恩返しがしたいと申し出てくれたのだ。
名はカシム。
痩せてはいるが、目に知性の光のある男だった。
◇
旅は、半月に及んだ。
北へ向かった先の旅とは、まるで逆。
進むほどに、空気は乾き、暑くなっていく。
緑が減り、土が乾き、やがて、見渡すかぎりの赤茶けた大地が広がった。
「昔は、このあたりも、麦の穂が、風に揺れる、美しい土地だったのです」
カシムが乾いた大地を眺め、ぽつりと言った。
「サウディスは、“南の穀倉”と呼ばれ、近隣の国々へ、豊かな実りを送り出していました。それが、今では……このありさまだ」
その声に滲む、深い悲しみ。
失われた故郷を悼むその響きが、胸に刺さった。
そして、サウディスの国境が近づくにつれ——光景は、無惨なものに変わっていった。
かつては豊かな農地だったのだろう。
広大な畑が見渡すかぎり広がっている。
けれど、そこに実るものは何もなかった。
作物は立ち枯れ、灰色に変色して、ぼろぼろと崩れている。
触れれば、指先で、さらさらと砂に還ってしまいそうだった。
道の脇には、力尽きた家畜が、倒れていた。
けれど、腐ってはいない。
まるで、内側から水分を抜き取られたように、皮と骨だけになって、半ば砂に埋もれている。
畑の畦には、逃げ遅れた小鳥が、羽を広げたまま、灰色に固まっていた。
——命あるものが、生きたまま、ゆっくりと砂に変えられていく。
その、声のない地獄。
肥沃だったはずの土はさらさらと乾き、風が吹くたびに砂となって舞い上がる。
「……ひどい」
馬車の窓から、その光景を見て、わたくしは言葉を失った。
ノルドの「味の消失」は、目に見えない異変だった。
けれど、これは違う。
大地そのものが、死んでいく。
命を育む力を根こそぎ奪われ、不毛の砂へ変えられていく。
——もっと直接的で、もっと暴力的な異変だった。
「アルヴィス様。これは……ノルドの異変とは、まるで形が違います」
「ああ」
アルヴィスも厳しい顔で頷いた。
「味が消えるのではなく、命そのものが枯れていく。同じ“理の綻び”でも、現れ方が、まったく違う」
味の神は言っていた。
世界のあちこちで、理が綻びはじめている、と。
きっと、その綻び方は、土地ごとに違うのだ。
ノルドでは味が。
ここサウディスでは、大地の実りが。
——では他の土地では、いったい何が。
考えるほどに、事の大きさが、のしかかってくる。
念のため、わたくしは馬車を降り、枯れ果てて灰色になった麦の茎を、一本だけ、そっと口に含んでみた。
《美食家の舌》を、研ぎ澄ませる。
——味が、ない。
いや、味以前に、茎の中にあるはずの命の気配そのものが、消えている。
ノルドの「味だけが抜ける」のとは違う。
ここでは、もっと根こそぎ“育む力”が奪い去られていた。
◇
国の中心に近づくと、難民の群れとすれ違うようになった。
枯れた畑を捨て、わずかな食料を求めてさまよう人々。
痩せ細った子を抱いた母親。
力なく座り込む老人。
その姿は、かつてのヴァルドを、ノルドを、思い起こさせた。
飢えは、どこの土地でも、同じ悲しい顔をしている。
「……止めて」
わたくしは御者に馬車を停めさせた。
そして、積んできたヴァルドの保存食を、難民たちに配りはじめた。
「どうぞ。少しですが、召し上がってください」
最初は警戒していた人々も、空腹には勝てない。
おそるおそる口にして——その顔が、ぱっとほころんだ。
「……うまい。こんなうまいもの、久しぶりだ」
「ありがとう、ありがとう、お貴族様……!」
涙を流して感謝する人々。
わたくしは、胸が痛んだ。
これは、その場しのぎにすぎない。
根本を断たなければ、この人たちはまた飢える。
「待っていてください。——必ず、この異変の原因を突き止めます。そして、あなたたちの大地に、もう一度、実りを取り戻してみせます」
ふたたび馬車を走らせながら、カシムがサウディスの今を語ってくれた。
「正直に申し上げます。今の我が国は、混乱の極みにあります」彼の声は重かった。
「枯死が始まってから、国王陛下はなすすべもなく。宮廷では、この災いの原因を巡って、責任のなすり合いが続いております。隣国の呪いだと唱える者。神の怒りだと、民を煽る者。……中には、この機に乗じて王位を狙う動きすら、あるとか」
国の屋台骨が、揺らいでいる。
飢えは、人の心まで痩せさせる。
わたくしは、ヴァルドで、王都で、それを嫌というほど見てきた。
「ですが」と、カシムはすがるように、わたくしを見た。
「異国の“食の魔術師”が北の災いを、たった一人で鎮めたという噂は、サウディスにも届いておりました。あなたなら、と。……それが、わたくしが命がけで北を目指した理由です」
その期待の重さに、わたくしは静かに頷いた。
背負うものが、またひとつ増えた。
けれど、逃げるつもりは、なかった。
砂に呑まれゆく南の国。
その中心へ、わたくしたちは馬車を進めた。
灼熱の大地の、さらに奥。
そこで何が待ち受けているのか。
——乾いた風が、頬を撫でていった。
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