第53話 ただいま、ヴァルド
ヴァルドへ帰り着いたのは、雪のちらつく、よく晴れた日のことだった。
「奥方様! 旦那様! お帰りなさいませ!」
館の前には、セバスをはじめ、使用人たちが勢ぞろいで出迎えてくれた。
村からも、報せを聞いた人々が続々と集まってくる。
ハンスの人懐っこい顔も見えた。
移り住んだマルクたち料理人の姿もある。
「ご無事で、何よりです。……北の果てへ行かれたと聞いて、生きた心地がしませんでした」
セバスが目を潤ませる。
わたくしは笑って頷いた。
「ただいま、セバス。心配をかけて、ごめんなさい。でも、ちゃんとやり遂げてきましたよ」
我が家。
あたたかい、我が家。
雪と氷の世界から戻ってくると、その温もりが、いっそう身に染みた。
ハンスが人垣をかき分けて、前に出てきた。
「奥方様! 留守の間、商売のほうは、おれが、しっかり回しておきましたぜ。ヴァルドの保存食、今やあちこちの街で引っ張りだこでさあ。——けど、奥方様の顔を見られねえのが、いちばん、寂しかった」
「ありがとう、ハンスさん。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」
村の女たちも口々に、おかえりなさいと声をかけてくれる。
誰かが、わたくしの好きな焼き菓子をそっと手に握らせてくれた。
マーサとアンナが仕込んだ、あの素朴な味だ。
ひと口かじると、甘さと一緒にじんわりと、帰ってきた実感が込み上げてきた。
◇
その夜は、ささやかな帰還の宴になった。
わたくしは久しぶりに、腕によりをかけた。
味の還った食材で、思う存分。
魚醤の効いた具だくさんの汁物。
じっくり煮込んでとろりと甘くなった根菜。
ふっくら蒸した雑穀。
香ばしく焼いた燻製肉。
そして、新しく仕込みの仕上がった味噌で作った、具だくさんの肉味噌煮込み。
根菜と、脂ののった猪肉を、琥珀色の味噌でことことと煮込んだそれは、湯気からして、もう、たまらない。
湯気の立つ皿が、次々と卓に並ぶ。
味噌の香ばしい匂い。
出汁の、深い旨味。
それが館いっぱいに広がって、誰もがたまらず喉を鳴らす。
「うまい……! やっぱり、奥方様の料理は世界一だ!」
「この味噌ってのは、すごいな! 何にでも合う!」
「ああ、こんなうまいもん食ってると、生きててよかったって、しみじみ思うぜ……」
村人たちが夢中で頬張る。
その笑顔を見ているだけで、胸が満たされていく。
ああ、これだ。
わたくしが守りたいもの。
ノルドで、あの神様にも伝えたかったこと。
——あたたかい料理を囲んで、人が笑う。
この、ささやかでかけがえのない幸せ。
味を失った、あの白い世界を見てきたからこそ分かる。
この当たり前の食卓が、どれほど尊いものか。
湯気ひとつ、笑い声ひとつ。
そのすべてが、奇跡のように愛おしかった。
「セラ」
隣に座るアルヴィスが、ふと口を開いた。
手には、わたくしの作った汁物の椀。
「……お前は、本当にすごい女だ。雪山で、神を相手にしても。こうして、村人を笑顔にしても。お前の料理は、どこでも変わらず、人をしあわせにする」
「ふふ。お褒めにあずかり、光栄です」
「褒めているんじゃない。——惚れ直した、と言っている」
不意打ちの言葉に、わたくしの頬が、かっと熱くなった。
最近のこの人は、本当に、こういうことをさらりと言う。
心臓に悪い。
「……もう。不意打ちは、ずるいです」
「ふ。事実を言ったまでだ」
照れ隠しに、わたくしは椀を口に運んだ。
あたたかい汁物が、火照った頬とは裏腹に、じんと胸に染みる。
しあわせだった。
文句なく、しあわせな夜だった。
◇
けれど——その平穏は、長くは続かなかった。
数日後。
ヴァルドに、一人の旅人が転がり込んできた。
ぼろぼろの身なり。
憔悴しきった顔。
けれど、その身につけているものは、明らかにどこか遠い、異国のものだった。
「……たすけ、て」
旅人は、館の門前で崩れ落ちた。
「どうか……“食の魔術師”さまに……南の国を……たすけて、ほしい……」
わたくしはすぐに、その人を保護した。
あたたかいスープを与え、介抱する。
落ち着いた頃、旅人は途切れ途切れに語りはじめた。
自分は、はるか南の国サウディスから来た商人だということ。
そして、その南の国で今、恐ろしいことが起きているということ。
「南の国の作物が……一斉に、枯れはじめたのです。緑が、黄に。実りが、灰に。豊かだった大地が、見る間に、不毛の砂へと……。このままでは、国中の民が、飢え死にしてしまう……!」
その言葉に、わたくしとアルヴィスは、顔を見合わせた。
ノルドの、味の異変。
そして今度は、南の国の、大地の枯死。
——偶然のはずがない。
「アルヴィス様。これは……」
「ああ」アルヴィスの顔が引き締まる。
「また“理”が綻びはじめた。——今度は、南で」
味の神は、言っていた。
これは、まだ始まりにすぎない、と。
世界のあちこちで、理が綻びはじめている、と。
その言葉が、現実になろうとしていた。
わたくしの戦いは——まだ、終わっていない。
いいえ、これから、もっと大きくなっていく。
新たな異変の地、南の国サウディスへ。
次なる謎が、わたくしを待っていた。
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