第52話 おいしいの意味
ノルドの集落へ戻ると、そこは見違えるように変わっていた。
味が、還ったのだ。
集落のあちこちで、人々が食事を口にしては、驚きと喜びの声を上げていた。
何ヶ月もおが屑を噛むようだった食事に、突然、味が戻ってきたのだから。
「味がする……! 味がするぞ!」
「ああ、この味だ……! 婆さんの作る、汁物の味だ……!」
涙を流して喜ぶ者。夢中でおかわりをする者。集落に、笑い声が戻っていた。
失われていた食卓の灯が、ひとつ、またひとつとともり直していく。
その光景に、わたくしの胸も熱くなった。
◇
族長の館へ向かうと、リーセがまっすぐに、弟の寝室へ駆け込んだ。
「ニルス! 起きて! ——味が、還ってきたのよ!」
寝台のニルスは、まだ弱っていた。けれどその目には、わずかに光が戻っている。
わたくしはすぐに厨房を借りた。
還ってきたノルドの食材で、あたたかい、滋養のあるスープをこしらえる。
今度は——ちゃんと味のある一杯を。
「ニルスくん。さあ、飲んでみて」
匙をその口元へ運ぶ。
少年はおそるおそる、ひと口すすって——。
その瞬間。少年の大きな目が、まんまるに見開かれた。
そしてその瞳に、みるみる涙が盛り上がっていく。
「……あ。……あじが、する」
震える声だった。
「あったかくて、あまくて、おいしい……。これだ。ぼく、これをわすれてた。“おいしい”って、こんなきもちだったんだ……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、少年は夢中でスープをすすった。
頬に、生気が戻っていく。その姿に、リーセも族長も、泣いていた。
わたくしも、涙が止まらなかった。
“おいしい”を、思い出してくれた。あの忘れてしまった、しあわせな気持ちを。
——これが見たかった。この笑顔が。この涙が。
料理人をやっていて本当によかったと、心から思える瞬間だった。
◇
ニルスは、その日からみるみる回復していった。
味が還れば、食欲も戻る。食べれば、力がつく。
あれほど痩せ細っていた少年が、数日のうちに寝台を出て、歩けるようになった。
「おねえちゃん! あのね、ぼく、きめたんだ!」
すっかり元気を取り戻したニルスが、ある日わたくしの手を握って言った。
「ぼくも、おねえちゃんみたいなりょうりにんになる! おいしいもので、みんなをえがおにするんだ! ——だって、それってせかいをすくうことなんでしょ?」
そのまっすぐな言葉に、わたくしは思わず笑って、そしてまた泣いてしまった。
「……ええ。そうよ。立派な料理人になってね。——あなたなら、きっとなれるわ」
◇
ノルドを発つ日が来た。
発つ前に、ひとつ、決めねばならないことがあった。
あの、氷の中に残された、淡く光る珠。
味の神の力が、一時的に凝縮されたもの。それを、どうするか。
「セラ様が、お持ちください」
族長が、そう言って、頭を下げた。
「あれは、わしらノルドの民だけでは、とても扱えるものではありません。味の神を救い、正気に戻したのは、あなただ。あの珠も、きっと、あなたのそばにいることを、望んでおりましょう」
わたくしは、しばし迷ったのち、その珠を、そっと、両手で受け取った。
手のひらの中で、珠は、あたたかく、優しく脈打っている。
まるで、小さな心臓のように。
(……あなたが、わたくしと共にいてくれるなら、心強いです)
“あのお方”という、得体の知れない脅威が、もし、本当に目覚めるのなら。
この、味の神の加護は——きっと、何かの、支えになる。
そんな予感が、あった。わたくしは、珠を、大切に、胸元へとしまった。
族長は深々と頭を下げ、ありったけの感謝を述べた。
リーセは涙ながらに、別れを惜しんでくれた。
「セラ様。あなたは、ノルドの恩人です。いいえ——世界の恩人だわ。このご恩は、生涯忘れません」
「大げさですよ」
わたくしは微笑んだ。
「わたくしは、ただ料理を作っただけ。でも、もしまた困ったことがあったら、いつでも呼んでください。あたたかい料理を持って、すぐに駆けつけます」
別れを惜しみながら、わたくしたちはノルドを後にした。
◇
帰りの馬車の中。わたくしはずっと、考えていた。
あの味の神。何千年も眠り、忘れられ、飢えていた、古い古い存在。
——あれは、いったい何だったのか。
ふと、宰相の言葉が甦る。
“あのお方”が目覚めれば、世界の真実に向き合うことになる。
そして書庫の記録。初代辺境伯の“神の舌”。失われし、世界の理。
(……まさか)
はっと、息を詰めた。
あの味の神が、“あのお方”なのだろうか。
——いいえ、違う気がする。
あの神は、あくまで“味”を司るひとつの存在。
けれど宰相の言う“あのお方”は、もっと根源的な何か。
世界の理そのものに関わる、もっと大きな——。
だとすれば。今回のノルドの異変は、その“あのお方”が目覚める、前触れ。
世界のあちこちで綻びはじめた“理”の、ほんのひとつにすぎないのかもしれない。
「アルヴィス様」
わたくしは、隣の彼を見た。
「……まだ、終わっていませんね。この物語は」
アルヴィスは静かに頷いた。
「ああ。だが——」
彼は、わたくしの手をそっと握った。
「何が来ようと、おれたちは二人で立ち向かう。お前の料理が人を救うかぎり。——負ける気は、せんな」
その言葉に、わたくしは微笑んだ。
不安はある。これからもっと大きな何かが、待っているのかもしれない。
けれど、怖くはなかった。
わたくしには《美食家の舌》がある。料理がある。そして隣には、この人がいる。
馬車は、ヴァルドへと進んでいく。あたたかな、我が家へ。
味の還った世界を抜けて。——次なる謎の待つ、明日へと。
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