第51話 味が還る
氷塊の中の黒い影が、ゆっくりと、供えられたシチューへ傾いていく。
そして——湯気を、すうっと吸い込んだ。
その瞬間。世界が、震えた。
——アア。
想念が震えながらこぼれた。それはもう、飢餓の叫びではなかった。
——アア。コレダ。コレヲ、我ハ……ズット、待ッテイタ。
黒い影が、シチューの温もりを味わっている。
何千年も忘れていた、人の心のこもった料理。その一杯を、噛みしめるように。
そして、信じられないことが起きた。
氷塊から滲み出していた、あの禍々しい瘴気が——すうっと薄れていく。
代わりに氷の内側から、淡いあたたかな光が灯りはじめた。
荒れ狂っていた飢餓が、鎮まっていく。満たされていく。
「……すごい」
リーセが呆然と呟いた。
剣を構えていたアルヴィスも、その光景に息を呑んでいる。
◇
——思イ出シタ。
神の想念が、穏やかに語りかけてきた。
——我ハ、味ノ神。人ニ、食ベル喜ビヲ与エル者。ソレナノニ忘レラレ、飢エ、イツシカ、奪ウ者ニ成リ果テテイタ。……ダガ、思イ出シタ。捧ゲラレル温モリノ、コノ幸セヲ。人ガ笑ッテ食ベル、ソノ喜ビヲ。
光が強くなっていく。氷塊全体が、まばゆく輝きはじめた。
——汝ノ料理。久シク忘レテイタ、心ノ味ガスル。アリガトウ。汝ノオカゲデ、我ハ正気ヲ取リ戻シタ。
「……よかった」
わたくしの目から、涙がこぼれた。
届いた。この神様のいちばん奥の、凍りついた場所まで。
料理が、ちゃんと届いたのだ。
「もう、飢えなくていいんです」
わたくしは光に向かって微笑んだ。
「あなたがひとりじゃないことを、思い出してください。あなたが世界に味を与えてくれるから、わたくしたちは食べる喜びを知ることができる。——あなたは、必要とされています。今も、これからも、ずっと」
その言葉に、光がひときわ大きく脈打った。まるで、歓喜の鼓動のように。
◇
そして——奇跡が起きた。
氷塊から放たれたあたたかな光が、波紋のように、外へ外へと広がっていく。
雪山を、谷を、ノルドの集落を——そしてその先の、世界中へと。
味を奪っていた力が、味を還す力へと、変わったのだ。
その光に触れた瞬間、わたくしの《美食家の舌》が捉えた。
——還ってくる。味が。あらゆるものに。
雪の冷たさにすら、かすかな清らかな味わいが、宿りはじめている。
「アルヴィス様! 味が——味が、還ってきます!」
わたくしは思わず、近くの氷の欠片を口にした。
ひんやりとした、けれど確かな、清冽な味。
間違いない。世界から奪われていた“味”が、今、一斉に戻りはじめている。
「……やったのか」
アルヴィスが、信じられないという顔で呟いた。
「お前は本当に……剣の一振りもなしに、世界を救ったのか」
「いいえ」
わたくしは涙を拭い、首を振った。
「救ったのは、料理です。——そして、この神様がもう一度、人を信じてくれた、その心です」
剣では、この神は斬れなかった。斬ったところで、飢えも、悲しみも、消えはしなかった。
奪う力には、より大きな奪う力ではなく、与える心で応えるししかかった。
それを成せたのは、武力ではなく、たった一皿の、あたたかな料理だった。
◇
光がおさまった頃。
氷塊は、すっかり透き通った清らかな氷へと変わっていた。中の黒い影は、もうどこにもない。
代わりに、ちいさな、淡く光る珠がひとつ、氷の中心に浮かんでいた。
——我ハ、少シ眠ル。
神の穏やかな声が響いた。
——奪ウ力ヲ、還ス力ニ戻スノニ、力ヲ使イスギタ。ダガ案ジルナ。モウ二度ト、飢エハシナイ。汝ガ、思イ出サセテクレタ。……マタ会オウ。味ヲ愛スル者ヨ。
光の珠がふわりと瞬いて——静かに、その輝きを和らげていった。
雪山に、穏やかな静寂が戻る。けれどそれはもう、味の失われた死の静寂ではなかった。
命の気配に満ちた、あたたかな再生の静けさだった。
アルヴィスがそっと、わたくしの肩を抱き寄せた。
「……無茶を、する女だ」
その声は、呆れているようで、けれど、震えていた。
「世界を滅ぼしかねん化け物の前で、平然と鍋を火にかけて。——心臓が、いくつあっても、足りん」
「ふふ。ごめんなさい」
わたくしは、彼の腕の温もりに身を預けた。緊張の糸が、ほどけていく。
今になって、膝が笑いはじめていた。
怖くなかったといえば、嘘になる。
あの巨大な飢餓を前に、それでも手を止めなかったのは——隣にこの人がいてくれたから。
「アルヴィス様が守ってくださると、信じていましたから。だから、料理に、集中できたんです。——これは、二人で、成し遂げたんですよ」
アルヴィスは、ふっと、息をこぼした。そして、わたくしの頭にそっと頬を寄せた。
「……ああ。そうだな。二人で、だ」
雪が静かに降りしきる。けれど、彼の腕の中は、どこよりもあたたかかった。
◇
わたくしは、空を見上げた。
雪が降っている。けれどもう、白い世界は怖くなかった。
この雪の一粒一粒にすら、今はちゃんと、味がある。
世界は、ふたたび“おいしい”を取り戻したのだ。
「……帰りましょう」
わたくしは微笑んだ。
「ノルドの皆さんに。ニルスくんに。——“おいしい”が還ってきたことを、伝えに」
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