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【7/5 7AMに最終話投稿予定】追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第5章 味の還る国

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第51話 味が還る

氷塊の中の黒い影が、ゆっくりと、供えられたシチューへ傾いていく。


そして——湯気を、すうっと吸い込んだ。


その瞬間。世界が、震えた。


——アア。


想念が震えながらこぼれた。それはもう、飢餓の叫びではなかった。


——アア。コレダ。コレヲ、我ハ……ズット、待ッテイタ。


黒い影が、シチューの温もりを味わっている。

何千年も忘れていた、人の心のこもった料理。その一杯を、噛みしめるように。


そして、信じられないことが起きた。


氷塊から滲み出していた、あの禍々しい瘴気が——すうっと薄れていく。

代わりに氷の内側から、淡いあたたかな光が灯りはじめた。


荒れ狂っていた飢餓が、鎮まっていく。満たされていく。


「……すごい」


リーセが呆然と呟いた。

剣を構えていたアルヴィスも、その光景に息を呑んでいる。



——思イ出シタ。


神の想念が、穏やかに語りかけてきた。


——我ハ、味ノ神。人ニ、食ベル喜ビヲ与エル者。ソレナノニ忘レラレ、飢エ、イツシカ、奪ウ者ニ成リ果テテイタ。……ダガ、思イ出シタ。捧ゲラレル温モリノ、コノ幸セヲ。人ガ笑ッテ食ベル、ソノ喜ビヲ。


光が強くなっていく。氷塊全体が、まばゆく輝きはじめた。


——汝ノ料理。久シク忘レテイタ、心ノ味ガスル。アリガトウ。汝ノオカゲデ、我ハ正気ヲ取リ戻シタ。


「……よかった」


わたくしの目から、涙がこぼれた。

届いた。この神様のいちばん奥の、凍りついた場所まで。

料理が、ちゃんと届いたのだ。


「もう、飢えなくていいんです」


わたくしは光に向かって微笑んだ。

「あなたがひとりじゃないことを、思い出してください。あなたが世界に味を与えてくれるから、わたくしたちは食べる喜びを知ることができる。——あなたは、必要とされています。今も、これからも、ずっと」


その言葉に、光がひときわ大きく脈打った。まるで、歓喜の鼓動のように。



そして——奇跡が起きた。


氷塊から放たれたあたたかな光が、波紋のように、外へ外へと広がっていく。

雪山を、谷を、ノルドの集落を——そしてその先の、世界中へと。


味を奪っていた力が、味を還す力へと、変わったのだ。


その光に触れた瞬間、わたくしの《美食家の舌》が捉えた。

——還ってくる。味が。あらゆるものに。


雪の冷たさにすら、かすかな清らかな味わいが、宿りはじめている。


「アルヴィス様! 味が——味が、還ってきます!」


わたくしは思わず、近くの氷の欠片を口にした。

ひんやりとした、けれど確かな、清冽な味。


間違いない。世界から奪われていた“味”が、今、一斉に戻りはじめている。


「……やったのか」

アルヴィスが、信じられないという顔で呟いた。

「お前は本当に……剣の一振りもなしに、世界を救ったのか」


「いいえ」


わたくしは涙を拭い、首を振った。

「救ったのは、料理です。——そして、この神様がもう一度、人を信じてくれた、その心です」


剣では、この神は斬れなかった。斬ったところで、飢えも、悲しみも、消えはしなかった。

奪う力には、より大きな奪う力ではなく、与える心で応えるししかかった。


それを成せたのは、武力ではなく、たった一皿の、あたたかな料理だった。



光がおさまった頃。


氷塊は、すっかり透き通った清らかな氷へと変わっていた。中の黒い影は、もうどこにもない。

代わりに、ちいさな、淡く光る珠がひとつ、氷の中心に浮かんでいた。


——我ハ、少シ眠ル。


神の穏やかな声が響いた。


——奪ウ力ヲ、還ス力ニ戻スノニ、力ヲ使イスギタ。ダガ案ジルナ。モウ二度ト、飢エハシナイ。汝ガ、思イ出サセテクレタ。……マタ会オウ。味ヲ愛スル者ヨ。


光の珠がふわりと瞬いて——静かに、その輝きを和らげていった。


雪山に、穏やかな静寂が戻る。けれどそれはもう、味の失われた死の静寂ではなかった。

命の気配に満ちた、あたたかな再生の静けさだった。


アルヴィスがそっと、わたくしの肩を抱き寄せた。


「……無茶を、する女だ」


その声は、呆れているようで、けれど、震えていた。

「世界を滅ぼしかねん化け物の前で、平然と鍋を火にかけて。——心臓が、いくつあっても、足りん」


「ふふ。ごめんなさい」


わたくしは、彼の腕の温もりに身を預けた。緊張の糸が、ほどけていく。

今になって、膝が笑いはじめていた。


怖くなかったといえば、嘘になる。

あの巨大な飢餓を前に、それでも手を止めなかったのは——隣にこの人がいてくれたから。


「アルヴィス様が守ってくださると、信じていましたから。だから、料理に、集中できたんです。——これは、二人で、成し遂げたんですよ」


アルヴィスは、ふっと、息をこぼした。そして、わたくしの頭にそっと頬を寄せた。


「……ああ。そうだな。二人で、だ」


雪が静かに降りしきる。けれど、彼の腕の中は、どこよりもあたたかかった。



わたくしは、空を見上げた。


雪が降っている。けれどもう、白い世界は怖くなかった。

この雪の一粒一粒にすら、今はちゃんと、味がある。

世界は、ふたたび“おいしい”を取り戻したのだ。


「……帰りましょう」


わたくしは微笑んだ。

「ノルドの皆さんに。ニルスくんに。——“おいしい”が還ってきたことを、伝えに」



最後まで読んでいただきありがとうございます。

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