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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第5章 味の還る国

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第50話 神への一皿

その場で、わたくしは調理の支度を始めた。


幸い、ヴァルドから持参した食材は、まだ味を保っている。

魚醤。乾物。味噌。燻製肉。

それに、護衛たちが背負ってきたわずかな根菜。


雪山の頂で使える道具は限られていたけれど、火は熾せる。鍋もある。それで十分だった。


「セラ。本当に、料理で……あれを?」


リーセが不安げに尋ねる。わたくしは頷いた。


「ええ。あの神様が飢えているのは、ただの食べ物じゃありません。“心のこもった料理”です。かつて人々が捧げた、あの温もり。それを、もう一度捧げます」


問題は、何を作るかだった。


相手は味を司る神。なまじな料理では心を動かせない。

けれど、どれほど豪華で技巧を凝らしても、それだけでは足りない。


この神が本当に飢えているのは、“味”そのものではなく、その奥にある人の想い。

誰かが自分のために、心を込めて作ってくれたという温もりだ。


豪華さでは、応えられない。技術でも、足りない。

——だったら、答えはひとつ。


わたくしは雪の上に、鍋をかけた。



作るのは、シチューだった。


辺境ヴァルドで、アルヴィスのために作った、あの一皿。

彼の凍った心を溶かした、素朴な、けれどありったけの真心を込めた煮込み。


根菜を丁寧に切る。

魚醤と乾物で出汁をひく。

燻製肉を薄く削いで、香りを重ねる。


雪山の凍える寒さの中で、指がかじかむのも構わず、わたくしは一つひとつの工程に、心を込めていった。


そして、最後に。わたくしは、ひとつまみの“あるもの”を、鍋に加えた。


リーセが、最初に持ってきた——あの、味の完全に失われた、ノルドのスープの素。

本来なら、もう、料理には使えない、“死んだ”食材。


けれど、わたくしは、あえて、それを入れた。


これは、ノルドの民が、長い冬を越えるために、代々作り続けてきた、暮らしの味だ。

今は味を失っていても、そこには確かに、人々の営みが、宿っている。


それを、ヴァルドの——わたくしの味で、そっと包み込む。

死にかけた食材に、もう一度、命を吹き込むように。


奪われたノルドの味を、捨てるのではなく、抱きしめて、神へ還す。

それでこそ、本当の“捧げ物”になる。そんな気が、したのだ。


おいしくなあれ。あたたかくなあれ。


この神様の、何千年もの孤独が、少しでも癒えますように。

忘れられた悲しみが、ほどけますように。

もう一度、「おいしい」を思い出してくれますように。


ふと、手を動かしながら、わたくしは前世を思った。

すり減って倒れる、あの瞬間まで、わたくしも、どこかで飢えていた。

誰かに「おいしい」と言ってほしくて。必要とされたくて。


——この神様の飢えは、他人事じゃない。

だからこそ、分かる。何を、どう、捧げればいいのかが。


ことこと、と鍋が煮える。


雪山の頂に、あたたかな湯気と香りが立ちのぼっていく。

味を失った白い静寂の世界に、ただ一点、そこだけが

——あたたかい、命の匂いに満ちていた。


——だが、その匂いが、神を、刺激した。


「セラ! 来るぞ!」


アルヴィスの鋭い声。

次の瞬間、氷塊がぎしと軋み、亀裂が大きく走った。

封じられた飢餓が、料理の匂いに反応して暴れ出したのだ。早ク寄越セ、と叫ぶように。


氷の隙間から黒い瘴気が噴き出し、わたくしへ襲いかかってくる。


「させるか!」


アルヴィスがわたくしの前に立ちはだかった。剣を一閃。

鋭い剣風が、迫る瘴気を、まとめて吹き飛ばす。


氷の隙間から、黒い影の腕のようなものが伸びてくるが、アルヴィスはそれを、容赦なく一刀のもとに斬り伏せた。


一歩も、退かない。その背中は、まるで、巨大な壁のようだった。


けれど瘴気は次から次へと、際限なく溢れてくる。

護衛たちもリーセも、必死にそれを食い止めようとする。


「奥方様、料理を! こちらはわたしたちが!」

リーセが叫んだ。


「セラ、手を止めるな!」

アルヴィスが瘴気を斬り伏せながら吼える。

「お前の仕事を、果たせ! ここは、おれが何があっても守り抜く!」


胸が震えた。

皆が命を懸けて、わたくしに料理の時間を作ってくれている。

——だったら、応えるしかない。


わたくしは鍋に向き直った。

背後で荒れ狂う瘴気も剣戟の音も、頭から締め出す。


今はただ、この一皿にすべてを注ぐ。

それが、わたくしにできる唯一の、そして最大の戦いだから。


おいしくなあれ。届いてほしい。あなたの、いちばん深い場所まで。



やがて、シチューが仕上がった。


わたくしはそれを器によそい、氷塊の前に、そっと供えた。


「どうぞ。何千年も待たせて、ごめんなさい。これが、わたくしからの捧げ物です。あなたのために、心を込めて作りました」


そして両手を合わせ、祈るように告げた。


「召し上がってください。そして思い出してください。——“おいしい”って、こんなにあたたかくて、しあわせな気持ちだったことを」


しん、と静まり返る。風が止んだ。

吹雪さえ、その瞬間だけ、息を潜めたかのように。


そして——氷塊から滲み出していた、あの禍々しい“気配”が、ほんのわずかに揺らいだ。


——コノ、匂イハ。


想念が、ぽつりとこぼれた。先ほどまでの荒れ狂う飢餓とは、まるで違う。

戸惑うような、怯えるような、けれどどこか懐かしむような——幼子のような声。


——温カイ。……懐カシイ。コレハ、コノ匂イハ。我ガ、忘レテイタ……。


氷塊の内部の、黒い影が、ゆっくりと動いた。


何千年もの眠りと、飢えと、孤独の果てに。

その神は今、たった一杯のシチューの湯気の前で——遠い昔に人々が捧げてくれた、あの温もりを、思い出そうとしていた。


わたくしは祈りながら見守った。


届け。どうか、届いて。あなたのいちばん奥の、凍りついた場所まで。


味の失われた世界の、その運命が。

たった一皿のあたたかな料理に——いま、託されようとしていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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