第50話 神への一皿
その場で、わたくしは調理の支度を始めた。
幸い、ヴァルドから持参した食材は、まだ味を保っている。
魚醤。乾物。味噌。燻製肉。
それに、護衛たちが背負ってきたわずかな根菜。
雪山の頂で使える道具は限られていたけれど、火は熾せる。鍋もある。それで十分だった。
「セラ。本当に、料理で……あれを?」
リーセが不安げに尋ねる。わたくしは頷いた。
「ええ。あの神様が飢えているのは、ただの食べ物じゃありません。“心のこもった料理”です。かつて人々が捧げた、あの温もり。それを、もう一度捧げます」
問題は、何を作るかだった。
相手は味を司る神。なまじな料理では心を動かせない。
けれど、どれほど豪華で技巧を凝らしても、それだけでは足りない。
この神が本当に飢えているのは、“味”そのものではなく、その奥にある人の想い。
誰かが自分のために、心を込めて作ってくれたという温もりだ。
豪華さでは、応えられない。技術でも、足りない。
——だったら、答えはひとつ。
わたくしは雪の上に、鍋をかけた。
◇
作るのは、シチューだった。
辺境ヴァルドで、アルヴィスのために作った、あの一皿。
彼の凍った心を溶かした、素朴な、けれどありったけの真心を込めた煮込み。
根菜を丁寧に切る。
魚醤と乾物で出汁をひく。
燻製肉を薄く削いで、香りを重ねる。
雪山の凍える寒さの中で、指がかじかむのも構わず、わたくしは一つひとつの工程に、心を込めていった。
そして、最後に。わたくしは、ひとつまみの“あるもの”を、鍋に加えた。
リーセが、最初に持ってきた——あの、味の完全に失われた、ノルドのスープの素。
本来なら、もう、料理には使えない、“死んだ”食材。
けれど、わたくしは、あえて、それを入れた。
これは、ノルドの民が、長い冬を越えるために、代々作り続けてきた、暮らしの味だ。
今は味を失っていても、そこには確かに、人々の営みが、宿っている。
それを、ヴァルドの——わたくしの味で、そっと包み込む。
死にかけた食材に、もう一度、命を吹き込むように。
奪われたノルドの味を、捨てるのではなく、抱きしめて、神へ還す。
それでこそ、本当の“捧げ物”になる。そんな気が、したのだ。
おいしくなあれ。あたたかくなあれ。
この神様の、何千年もの孤独が、少しでも癒えますように。
忘れられた悲しみが、ほどけますように。
もう一度、「おいしい」を思い出してくれますように。
ふと、手を動かしながら、わたくしは前世を思った。
すり減って倒れる、あの瞬間まで、わたくしも、どこかで飢えていた。
誰かに「おいしい」と言ってほしくて。必要とされたくて。
——この神様の飢えは、他人事じゃない。
だからこそ、分かる。何を、どう、捧げればいいのかが。
ことこと、と鍋が煮える。
雪山の頂に、あたたかな湯気と香りが立ちのぼっていく。
味を失った白い静寂の世界に、ただ一点、そこだけが
——あたたかい、命の匂いに満ちていた。
——だが、その匂いが、神を、刺激した。
「セラ! 来るぞ!」
アルヴィスの鋭い声。
次の瞬間、氷塊がぎしと軋み、亀裂が大きく走った。
封じられた飢餓が、料理の匂いに反応して暴れ出したのだ。早ク寄越セ、と叫ぶように。
氷の隙間から黒い瘴気が噴き出し、わたくしへ襲いかかってくる。
「させるか!」
アルヴィスがわたくしの前に立ちはだかった。剣を一閃。
鋭い剣風が、迫る瘴気を、まとめて吹き飛ばす。
氷の隙間から、黒い影の腕のようなものが伸びてくるが、アルヴィスはそれを、容赦なく一刀のもとに斬り伏せた。
一歩も、退かない。その背中は、まるで、巨大な壁のようだった。
けれど瘴気は次から次へと、際限なく溢れてくる。
護衛たちもリーセも、必死にそれを食い止めようとする。
「奥方様、料理を! こちらはわたしたちが!」
リーセが叫んだ。
「セラ、手を止めるな!」
アルヴィスが瘴気を斬り伏せながら吼える。
「お前の仕事を、果たせ! ここは、おれが何があっても守り抜く!」
胸が震えた。
皆が命を懸けて、わたくしに料理の時間を作ってくれている。
——だったら、応えるしかない。
わたくしは鍋に向き直った。
背後で荒れ狂う瘴気も剣戟の音も、頭から締め出す。
今はただ、この一皿にすべてを注ぐ。
それが、わたくしにできる唯一の、そして最大の戦いだから。
おいしくなあれ。届いてほしい。あなたの、いちばん深い場所まで。
◇
やがて、シチューが仕上がった。
わたくしはそれを器によそい、氷塊の前に、そっと供えた。
「どうぞ。何千年も待たせて、ごめんなさい。これが、わたくしからの捧げ物です。あなたのために、心を込めて作りました」
そして両手を合わせ、祈るように告げた。
「召し上がってください。そして思い出してください。——“おいしい”って、こんなにあたたかくて、しあわせな気持ちだったことを」
しん、と静まり返る。風が止んだ。
吹雪さえ、その瞬間だけ、息を潜めたかのように。
そして——氷塊から滲み出していた、あの禍々しい“気配”が、ほんのわずかに揺らいだ。
——コノ、匂イハ。
想念が、ぽつりとこぼれた。先ほどまでの荒れ狂う飢餓とは、まるで違う。
戸惑うような、怯えるような、けれどどこか懐かしむような——幼子のような声。
——温カイ。……懐カシイ。コレハ、コノ匂イハ。我ガ、忘レテイタ……。
氷塊の内部の、黒い影が、ゆっくりと動いた。
何千年もの眠りと、飢えと、孤独の果てに。
その神は今、たった一杯のシチューの湯気の前で——遠い昔に人々が捧げてくれた、あの温もりを、思い出そうとしていた。
わたくしは祈りながら見守った。
届け。どうか、届いて。あなたのいちばん奥の、凍りついた場所まで。
味の失われた世界の、その運命が。
たった一皿のあたたかな料理に——いま、託されようとしていた。
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