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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第5章 味の還る国

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第49話 氷の中の声

巨大な氷塊の前に、わたくしたちは立っていた。


近づくほどに、味を消す力は強烈になった。

もはや自分の舌があるのかどうかすら分からない。口の中が、ただの空洞のように感じられる。

それほどまでに、ここは“味”という概念から見放された場所だった。


氷の内部の、黒い影。目を凝らしても、その全体像は掴めない。途方もなく大きい。

けれど輪郭は、ぼんやりと、人の形にも獣の形にも見えた。


「……これが、ノルドを蝕んでいた元凶」


わたくしが震える声で呟いた、そのとき。


——腹ガ、減ッタ。


頭の中に、直接、声が響いた。



声というより、それは“想念”だった。

言葉ではなく、剥き出しの感情が、頭の中に流れ込んでくる。


——腹ガ減ッタ。何モ感ジナイ。何モ味ワエナイ。コノ飢エ。コノ虚シサ。


その想念に、わたくしはよろめいた。

あまりにも巨大で、深い飢餓。

それは、何千年も満たされぬまま彷徨い続けた、孤独な魂の慟哭だった。


「セラ! 大丈夫か!」


アルヴィスがわたくしを支える。

彼にも、リーセにも、この“声”は聞こえていないようだった。


聞こえているのは——食べ物の真価を視る、わたくしの《美食家の舌》だけ。


そうか、と直感した。これは“味”を司る、何か。

だからこそ、味覚の力を持つわたくしにだけ、その“想い”が届く。


「……あなたは、誰?」


わたくしは恐れを押し殺し、氷塊に問いかけた。

「なぜ、ノルドの——いいえ、世界の味を、奪うのですか」



応えるように、想念が形を成していった。それは、はるか古い記憶だった。


世界がまだ若かった頃。

その“存在”は、世界に“味”を与える者として生まれたのだという。


あらゆる食べ物に、滋味を、甘みを、旨味を。

人が食べて「おいしい」と笑う、その喜びの源泉。それが、その者の役割だった。


人々はその恵みに感謝し、捧げ物をした。あたたかい、心のこもった料理を。

“存在”はその捧げ物を食べて満たされ、また世界に味を与え続けた。

——そういう循環があった。


けれど時が流れ、人は、その者の存在を忘れた。


捧げ物は絶えた。感謝は消えた。誰も、その者にあたたかい料理を捧げなくなった。


飢えた“存在”は衰え、やがて、この北の果てで眠りについた。

——けれど、その飢えは消えなかった。


眠りの中で、飢えは肥大し、歪んでいった。

満たされぬ飢餓が、いつしか世界から“味”を奪い返す力へと、変わっていったのだ。


「……そんな」


わたくしは絶句した。


これは、ただの怪物ではなかった。

忘れられ、飢え続け、その悲しみゆえに暴走してしまった、哀れな“神”。


世界に味を与えていた者が、味を奪う者へと堕ちてしまった。

——なんという悲劇だろう。


胸が、締めつけられた。

誰かに必要とされ、感謝されることの喜び。それを失った時の、底のない孤独。

わたくしは前世で、それを少しだけ知っている。すり減って、倒れる、その瞬間まで。


だから、分かってしまう。この“神”の飢えの、本当の正体が。


満たされたいのは、腹ではない。——心だ。



——モット。モット寄越セ。我ノ飢エヲ、満タセ。


想念が苛立ち、荒れ狂いはじめた。

氷塊が、ぴしり、と音を立て、亀裂が走る。封印が緩みかけている。


この者が完全に目覚めれば、世界中の“味”が根こそぎ奪われてしまう。


「セラ、下がれ! 何か来るぞ!」


アルヴィスが剣を抜いた。けれど、わたくしは動かった。


なぜなら——分かってしまったから。この哀れな存在を鎮める方法が。


剣でも、魔法でもない。封印を強化することでもない。

そんなものでは、根本は何も解決しない。

この者の飢えが続く限り、いつか必ず、また同じことが起きる。


必要なのは、たったひとつ。


わたくしは氷塊をまっすぐ見上げ、静かに、けれどはっきりと告げた。


「分かりました。あなたの飢えを、満たします。——わたくしが、あなたに“おいしい”を、捧げます」


その言葉に、荒れ狂っていた想念が、ふと止まった。


「セラ、何を言っている!?」


アルヴィスが、目を見開く。

リーセも、信じられないという顔で、わたくしを見た。

あれは、世界を滅ぼしかけている、怪物。それを、料理で、満たす——?


「大丈夫です」


わたくしは、二人を振り返って微笑んだ。

「だって、これは、わたくしの専門ですから。飢えた人を満たして、笑顔にする。それが、料理人の仕事でしょう?」


アルヴィスはしばらく、わたくしを見つめていた。

剣を握る手に、迷いが揺れる。


当然だ。目の前にいるのは、世界を滅ぼしかねない存在。

武人の本能は「斬れ」と告げているはず。


けれど彼は——ゆっくりと剣を鞘に収めた。


「……分かった。お前を信じる」

低く、けれど揺るぎない声だった。

「おれには、その“声”は聞こえん。氷の中のものが何を思っているのかも分からん。だが——お前が満たせると言うなら、満たせるのだろう。おれは、お前のやり方を何度もこの目で見てきた。剣では救えなかったものを、お前は料理で救ってきた」


彼は、わたくしの隣に並んだ。


「やれ、セラ。——おれは、お前が心おきなく料理に集中できるよう、何が来ようとここで防ぐ。それが、おれの役目だ」


その言葉に、胸が熱くなった。

理解できないものを前にしてなお、わたくしを信じ盾になると言ってくれる。

これ以上、心強いことはなかった。


「……はい。お任せします」


何千年も、誰からも忘れられていた“神”。

その存在に初めてまっすぐ向き合い、手を差し伸べる者が現れた。

——料理を、愛する者が。


さあ、と、わたくしは袖をまくった。忘れられた神に捧げる、最初のひと皿。

それを作るときが、ついに来たのだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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