第49話 氷の中の声
巨大な氷塊の前に、わたくしたちは立っていた。
近づくほどに、味を消す力は強烈になった。
もはや自分の舌があるのかどうかすら分からない。口の中が、ただの空洞のように感じられる。
それほどまでに、ここは“味”という概念から見放された場所だった。
氷の内部の、黒い影。目を凝らしても、その全体像は掴めない。途方もなく大きい。
けれど輪郭は、ぼんやりと、人の形にも獣の形にも見えた。
「……これが、ノルドを蝕んでいた元凶」
わたくしが震える声で呟いた、そのとき。
——腹ガ、減ッタ。
頭の中に、直接、声が響いた。
◇
声というより、それは“想念”だった。
言葉ではなく、剥き出しの感情が、頭の中に流れ込んでくる。
——腹ガ減ッタ。何モ感ジナイ。何モ味ワエナイ。コノ飢エ。コノ虚シサ。
その想念に、わたくしはよろめいた。
あまりにも巨大で、深い飢餓。
それは、何千年も満たされぬまま彷徨い続けた、孤独な魂の慟哭だった。
「セラ! 大丈夫か!」
アルヴィスがわたくしを支える。
彼にも、リーセにも、この“声”は聞こえていないようだった。
聞こえているのは——食べ物の真価を視る、わたくしの《美食家の舌》だけ。
そうか、と直感した。これは“味”を司る、何か。
だからこそ、味覚の力を持つわたくしにだけ、その“想い”が届く。
「……あなたは、誰?」
わたくしは恐れを押し殺し、氷塊に問いかけた。
「なぜ、ノルドの——いいえ、世界の味を、奪うのですか」
◇
応えるように、想念が形を成していった。それは、はるか古い記憶だった。
世界がまだ若かった頃。
その“存在”は、世界に“味”を与える者として生まれたのだという。
あらゆる食べ物に、滋味を、甘みを、旨味を。
人が食べて「おいしい」と笑う、その喜びの源泉。それが、その者の役割だった。
人々はその恵みに感謝し、捧げ物をした。あたたかい、心のこもった料理を。
“存在”はその捧げ物を食べて満たされ、また世界に味を与え続けた。
——そういう循環があった。
けれど時が流れ、人は、その者の存在を忘れた。
捧げ物は絶えた。感謝は消えた。誰も、その者にあたたかい料理を捧げなくなった。
飢えた“存在”は衰え、やがて、この北の果てで眠りについた。
——けれど、その飢えは消えなかった。
眠りの中で、飢えは肥大し、歪んでいった。
満たされぬ飢餓が、いつしか世界から“味”を奪い返す力へと、変わっていったのだ。
「……そんな」
わたくしは絶句した。
これは、ただの怪物ではなかった。
忘れられ、飢え続け、その悲しみゆえに暴走してしまった、哀れな“神”。
世界に味を与えていた者が、味を奪う者へと堕ちてしまった。
——なんという悲劇だろう。
胸が、締めつけられた。
誰かに必要とされ、感謝されることの喜び。それを失った時の、底のない孤独。
わたくしは前世で、それを少しだけ知っている。すり減って、倒れる、その瞬間まで。
だから、分かってしまう。この“神”の飢えの、本当の正体が。
満たされたいのは、腹ではない。——心だ。
◇
——モット。モット寄越セ。我ノ飢エヲ、満タセ。
想念が苛立ち、荒れ狂いはじめた。
氷塊が、ぴしり、と音を立て、亀裂が走る。封印が緩みかけている。
この者が完全に目覚めれば、世界中の“味”が根こそぎ奪われてしまう。
「セラ、下がれ! 何か来るぞ!」
アルヴィスが剣を抜いた。けれど、わたくしは動かった。
なぜなら——分かってしまったから。この哀れな存在を鎮める方法が。
剣でも、魔法でもない。封印を強化することでもない。
そんなものでは、根本は何も解決しない。
この者の飢えが続く限り、いつか必ず、また同じことが起きる。
必要なのは、たったひとつ。
わたくしは氷塊をまっすぐ見上げ、静かに、けれどはっきりと告げた。
「分かりました。あなたの飢えを、満たします。——わたくしが、あなたに“おいしい”を、捧げます」
その言葉に、荒れ狂っていた想念が、ふと止まった。
「セラ、何を言っている!?」
アルヴィスが、目を見開く。
リーセも、信じられないという顔で、わたくしを見た。
あれは、世界を滅ぼしかけている、怪物。それを、料理で、満たす——?
「大丈夫です」
わたくしは、二人を振り返って微笑んだ。
「だって、これは、わたくしの専門ですから。飢えた人を満たして、笑顔にする。それが、料理人の仕事でしょう?」
アルヴィスはしばらく、わたくしを見つめていた。
剣を握る手に、迷いが揺れる。
当然だ。目の前にいるのは、世界を滅ぼしかねない存在。
武人の本能は「斬れ」と告げているはず。
けれど彼は——ゆっくりと剣を鞘に収めた。
「……分かった。お前を信じる」
低く、けれど揺るぎない声だった。
「おれには、その“声”は聞こえん。氷の中のものが何を思っているのかも分からん。だが——お前が満たせると言うなら、満たせるのだろう。おれは、お前のやり方を何度もこの目で見てきた。剣では救えなかったものを、お前は料理で救ってきた」
彼は、わたくしの隣に並んだ。
「やれ、セラ。——おれは、お前が心おきなく料理に集中できるよう、何が来ようとここで防ぐ。それが、おれの役目だ」
その言葉に、胸が熱くなった。
理解できないものを前にしてなお、わたくしを信じ盾になると言ってくれる。
これ以上、心強いことはなかった。
「……はい。お任せします」
何千年も、誰からも忘れられていた“神”。
その存在に初めてまっすぐ向き合い、手を差し伸べる者が現れた。
——料理を、愛する者が。
さあ、と、わたくしは袖をまくった。忘れられた神に捧げる、最初のひと皿。
それを作るときが、ついに来たのだ。
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