第48話 眠りの山へ
出発の前に、わたくしは、集落に置いておいたヴァルドの干し肉を、確かめた。
ひと口、舐める。——そして、表情が、こわばった。
味が、薄い。ほんの、わずかに。
けれど確かに、ヴァルドにいた頃よりも、味の輪郭が、ぼやけている。
数日この地に置いただけで、味を保っていたはずのヴァルドの食材すら、少しずつ、その土地の異変に、染まりはじめていた。
ざわり、と、嫌な予感が胸をよぎる。
「……のんびりは、していられませんね」
つまり、これは、時間との戦いでもある。
長くこの地に留まるほど、わたくしの“武器”であるヴァルドの食材すら、味を吸い取られていく。
原因を断たねば、いずれ、世界中のあらゆる食材が、こうなる。
決意が、いっそう、引き締まった。
◇
翌朝。まだ暗いうちに、わたくしたちは集落を発った。
向かうのは北の氷の山。ノルドの民が“眠りの山”と呼んで近づこうとしない、禁忌の地だ。
リーセを先頭に、わたくしとアルヴィス、それに数人の護衛が続く。
防寒の毛皮を幾重にもまとい、数日分の食料と燃料を背負っての出発だった。
雪道は一歩進むごとに過酷さを増した。
膝まで埋まる雪。刃のように吹きつける風。
少しでも気を抜けば、たちまち体温を奪われる。
リーセの案内がなければ、半日ともたずに遭難していただろう。
彼女はノルドの娘として雪の表情を読み、安全な道を選び取っていった。
「そこは雪が薄く積もっているだけです。下は崖。右へ回り込んでください」
「この斜面は、午後になると雪崩れます。今のうちに抜けましょう」
——リーセの指示は、的確そのものだった。
猛吹雪で視界が利かない中でも、わたくしたちが迷わず進めるのは、ひとえに彼女のおかげ。
雪国に生きてきた者だけが持つ、確かな知恵だった。
「この谷を抜ければ、山の麓です。……でも、ここから先は、わたしも足を踏み入れたことがありません」
リーセの声は緊張に張りつめていた。
◇
麓に近づくにつれ、わたくしの《美食家の舌》は、異様な感覚を捉えはじめた。
味が、ない。完全に、ない。
ここまで来ると、もはや「薄い」のではなかった。
空気そのものから。雪から。わずかに芽吹く苔の一片から。
あらゆるものから、味という概念が根こそぎ消え失せている。
まるで世界の一部分だけが、白く塗りつぶされてしまったかのよう。
それだけではなかった。舌だけでなく、肌で感じる。何か巨大な“気配”を。
山の奥から、静かに、けれど絶え間なく染み出してくる、得体の知れない力。
それは生き物の気配とも違った。もっと根源的で、人智の及ばない何か。
「アルヴィス様。……感じますか」
「ああ」
アルヴィスの声が低く沈んだ。剣の柄に手をかけている。
「戦場で何度も死線をくぐってきた。だが、こんな感覚は初めてだ。肌がひりつく。近づくな、と本能が叫んでいる」
歴戦の武人がそう言うほどの気配。
けれど、わたくしたちは進むしかなかった。
◇
雪洞で一夜を明かし、登攀は二日目に入った。
その途中、危機は突然訪れた。
先頭を歩いていたリーセの足元で、雪が、ずぼりと沈んだ。
「——っ、危ない!」
雪に隠れた、深い亀裂。クレバスだった。
リーセの体が、ぐらりと、暗い裂け目へ傾く。悲鳴を上げる間もなかった。
「リーセさん!」
とっさに、わたくしは手を伸ばした。けれど届かない。
その刹那——アルヴィスが動いた。
地を蹴り、リーセの腕を、がっしりと掴む。
そのまま自らの体を支点にして、彼女を、雪の上へと引き戻した。
「……っ、た、助かり、ました……」
リーセが、がたがたと震えながら、雪の上にへたり込む。
あと一歩、判断が遅ければ、彼女は底の見えない氷の裂け目に、呑み込まれていた。
「気を抜くな」
アルヴィスが、低く言った。
「この山は、味だけでなく、命そのものを、奪おうとしてくる。一歩ごとに、死が、口を開けている」
それきり、わたくしたちは、言葉少なに、慎重に、雪面を確かめながら進んだ。
互いの体を、綱で繋いで。一人が滑落しても、残りが支えられるように。
三人で、ひとつの命綱を分け合うように、登っていく。
◇
山腹を登るほどに、景色は現実離れしていった。
氷が奇妙な形に結晶している。
木々は葉を落としているのに、時が止まったように立ち枯れたまま朽ちない。
動物の姿はひとつもない。音もない。
ただ白い静寂だけが、どこまでも広がっている。
生命の営みが、まるごと抜け落ちた世界だった。
「……ここは、死んでいる」
わたくしは思わず呟いた。
味が失われた世界の、行き着く果て。
もしこの異変が広がりきれば、世界はこうなる。
何を食べても味がせず、やがて生きる喜びを失い、すべてがこの白い静寂に呑み込まれていく。
肌が、ひやりとした。そして改めて、決意を固める。
これを止めなければならない。何としても。
アルヴィスが、わたくしの隣に並んだ。
「……怖いか」
「はい。正直、怖いです」
わたくしは素直に頷いた。
「でも、それ以上に、許せないんです。生命を、味を、食べる喜びを——こんなふうに根こそぎ奪っていく、この力が」
「ああ。おれもだ」
アルヴィスが、雪に煙る頂を見上げた。
「だが、覚えておけ。お前は、たった一皿の料理で、死にかけたこの世界の片隅を、何度もよみがえらせてきた。——奪う力に対して、お前は、生み出す力だ。負けるはずがない」
その言葉が、凍えた胸に、火を灯した。
そうだ。わたくしは、料理人。
どんなに大きな“奪う力”だろうと、人を生かし、笑顔にする力を、わたくしは信じている。
◇
そして、二日目の夕刻。
吹雪の合間に、わたくしたちは、それを見た。
山の頂近く。氷壁に囲まれた、巨大な窪地。
その中心に——あった。
「……あれは」
巨大な、氷の塊。けれど、ただの氷ではなかった。
その内部に、黒く巨大な“影”が封じ込められている。
山ひとつほどもあろうかという、途方もない大きさの、何か。
そしてその氷の表面からは、絶え間なく、あの“気配”が滲み出していた。
味を消し去る、根源の力が。
リーセが、震える声で言った。
「……言い伝えの、とおりだ。人ならざるものが、眠っている。本当に、いたんだ」
わたくしは、その氷の塊を見上げた。全身が、こわばる。
けれど同時に、胸の中で、ひとつの問いが形になっていた。
あれは何なのか。なぜ味を奪うのか。
そして——宰相の言った“あのお方”とは、あれのことなのか。
味の失われた世界の核心。
それは今、目の前に、氷に封じられて横たわっていた。
——けれど、わたくしたちは、まだ知らなかった。その“眠り”が、もう覚めかけていることを。
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