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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第5章 味の還る国

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第48話 眠りの山へ

出発の前に、わたくしは、集落に置いておいたヴァルドの干し肉を、確かめた。


ひと口、舐める。——そして、表情が、こわばった。


味が、薄い。ほんの、わずかに。

けれど確かに、ヴァルドにいた頃よりも、味の輪郭が、ぼやけている。


数日この地に置いただけで、味を保っていたはずのヴァルドの食材すら、少しずつ、その土地の異変に、染まりはじめていた。


ざわり、と、嫌な予感が胸をよぎる。


「……のんびりは、していられませんね」


つまり、これは、時間との戦いでもある。

長くこの地に留まるほど、わたくしの“武器”であるヴァルドの食材すら、味を吸い取られていく。

原因を断たねば、いずれ、世界中のあらゆる食材が、こうなる。


決意が、いっそう、引き締まった。



翌朝。まだ暗いうちに、わたくしたちは集落を発った。


向かうのは北の氷の山。ノルドの民が“眠りの山”と呼んで近づこうとしない、禁忌の地だ。

リーセを先頭に、わたくしとアルヴィス、それに数人の護衛が続く。


防寒の毛皮を幾重にもまとい、数日分の食料と燃料を背負っての出発だった。


雪道は一歩進むごとに過酷さを増した。


膝まで埋まる雪。刃のように吹きつける風。

少しでも気を抜けば、たちまち体温を奪われる。


リーセの案内がなければ、半日ともたずに遭難していただろう。

彼女はノルドの娘として雪の表情を読み、安全な道を選び取っていった。


「そこは雪が薄く積もっているだけです。下は崖。右へ回り込んでください」

「この斜面は、午後になると雪崩れます。今のうちに抜けましょう」


——リーセの指示は、的確そのものだった。


猛吹雪で視界が利かない中でも、わたくしたちが迷わず進めるのは、ひとえに彼女のおかげ。

雪国に生きてきた者だけが持つ、確かな知恵だった。


「この谷を抜ければ、山の麓です。……でも、ここから先は、わたしも足を踏み入れたことがありません」


リーセの声は緊張に張りつめていた。



麓に近づくにつれ、わたくしの《美食家の舌》は、異様な感覚を捉えはじめた。


味が、ない。完全に、ない。


ここまで来ると、もはや「薄い」のではなかった。

空気そのものから。雪から。わずかに芽吹く苔の一片から。

あらゆるものから、味という概念が根こそぎ消え失せている。


まるで世界の一部分だけが、白く塗りつぶされてしまったかのよう。


それだけではなかった。舌だけでなく、肌で感じる。何か巨大な“気配”を。

山の奥から、静かに、けれど絶え間なく染み出してくる、得体の知れない力。


それは生き物の気配とも違った。もっと根源的で、人智の及ばない何か。


「アルヴィス様。……感じますか」


「ああ」

アルヴィスの声が低く沈んだ。剣の柄に手をかけている。

「戦場で何度も死線をくぐってきた。だが、こんな感覚は初めてだ。肌がひりつく。近づくな、と本能が叫んでいる」


歴戦の武人がそう言うほどの気配。

けれど、わたくしたちは進むしかなかった。



雪洞で一夜を明かし、登攀は二日目に入った。


その途中、危機は突然訪れた。


先頭を歩いていたリーセの足元で、雪が、ずぼりと沈んだ。


「——っ、危ない!」


雪に隠れた、深い亀裂。クレバスだった。

リーセの体が、ぐらりと、暗い裂け目へ傾く。悲鳴を上げる間もなかった。


「リーセさん!」


とっさに、わたくしは手を伸ばした。けれど届かない。

その刹那——アルヴィスが動いた。


地を蹴り、リーセの腕を、がっしりと掴む。

そのまま自らの体を支点にして、彼女を、雪の上へと引き戻した。


「……っ、た、助かり、ました……」


リーセが、がたがたと震えながら、雪の上にへたり込む。

あと一歩、判断が遅ければ、彼女は底の見えない氷の裂け目に、呑み込まれていた。


「気を抜くな」

アルヴィスが、低く言った。

「この山は、味だけでなく、命そのものを、奪おうとしてくる。一歩ごとに、死が、口を開けている」


それきり、わたくしたちは、言葉少なに、慎重に、雪面を確かめながら進んだ。

互いの体を、綱で繋いで。一人が滑落しても、残りが支えられるように。


三人で、ひとつの命綱を分け合うように、登っていく。



山腹を登るほどに、景色は現実離れしていった。


氷が奇妙な形に結晶している。

木々は葉を落としているのに、時が止まったように立ち枯れたまま朽ちない。

動物の姿はひとつもない。音もない。


ただ白い静寂だけが、どこまでも広がっている。

生命の営みが、まるごと抜け落ちた世界だった。


「……ここは、死んでいる」


わたくしは思わず呟いた。

味が失われた世界の、行き着く果て。

もしこの異変が広がりきれば、世界はこうなる。


何を食べても味がせず、やがて生きる喜びを失い、すべてがこの白い静寂に呑み込まれていく。


肌が、ひやりとした。そして改めて、決意を固める。

これを止めなければならない。何としても。


アルヴィスが、わたくしの隣に並んだ。


「……怖いか」


「はい。正直、怖いです」

わたくしは素直に頷いた。

「でも、それ以上に、許せないんです。生命を、味を、食べる喜びを——こんなふうに根こそぎ奪っていく、この力が」


「ああ。おれもだ」

アルヴィスが、雪に煙る頂を見上げた。

「だが、覚えておけ。お前は、たった一皿の料理で、死にかけたこの世界の片隅を、何度もよみがえらせてきた。——奪う力に対して、お前は、生み出す力だ。負けるはずがない」


その言葉が、凍えた胸に、火を灯した。


そうだ。わたくしは、料理人。

どんなに大きな“奪う力”だろうと、人を生かし、笑顔にする力を、わたくしは信じている。



そして、二日目の夕刻。


吹雪の合間に、わたくしたちは、それを見た。


山の頂近く。氷壁に囲まれた、巨大な窪地。

その中心に——あった。


「……あれは」


巨大な、氷の塊。けれど、ただの氷ではなかった。

その内部に、黒く巨大な“影”が封じ込められている。


山ひとつほどもあろうかという、途方もない大きさの、何か。

そしてその氷の表面からは、絶え間なく、あの“気配”が滲み出していた。

味を消し去る、根源の力が。


リーセが、震える声で言った。


「……言い伝えの、とおりだ。人ならざるものが、眠っている。本当に、いたんだ」


わたくしは、その氷の塊を見上げた。全身が、こわばる。

けれど同時に、胸の中で、ひとつの問いが形になっていた。


あれは何なのか。なぜ味を奪うのか。

そして——宰相の言った“あのお方”とは、あれのことなのか。


味の失われた世界の核心。

それは今、目の前に、氷に封じられて横たわっていた。


——けれど、わたくしたちは、まだ知らなかった。その“眠り”が、もう覚めかけていることを。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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