第47話 味の地図
調査は翌朝から始まった。
わたくしはまず、持参したヴァルドの食材を確かめた。
魚醤。燻製肉。味噌。乾物。
ノルドの地で、これらがどうなっているか。ひと口ずつ舐めていく。
「……ある。味が、ちゃんとある」
ほっと息をついた。
ヴァルドから持ってきた食材は、ノルドの地でも味を保っていた。
つまり、失われているのは食材そのものに宿る味ではない。
この土地で採れたり作られたりするものから、味が抜けていく。土地に、何かが起きている。
食材はその土地の異変を、移し取ってしまうのだ。
ひとつ、確かめたいことがあった。
「リーセさん。お願いがあります。わたくしの持ってきたこの乾物を、しばらくこの集落に置いておきたいんです。そして毎日、味を確かめさせてください」
もしヴァルドの食材すら、この地に置くうちに味を失っていくのなら。
異変は空気のように、土地そのものに満ちている。それを確かめるための実験だった。
◇
その日から、わたくしは集落を歩き回った。
谷のあちこちで、雪を溶かした水を舐め、土を確かめ、わずかに残る植物の味を探る。
一歩ごとに《美食家の舌》を研ぎ澄ませて。
そして気づいた。味の薄れには、はっきりとした濃淡がある。
集落の南、ヴァルド寄りの場所では、味はまだかろうじて残っている。
けれど北へ、谷の奥へと進むほど、味は急速に消えていく。
族長の言ったとおりだった。震源は北。氷の山の方角。
わたくしは頭の中に、一枚の“地図”を描いていった。
味の濃い場所。薄い場所。消えた場所。
それを繋いでいくと、くっきりと浮かび上がってくる。
——同心円。
北の氷の山を中心に、味の消滅が波紋のように広がっている。
疑いようがなかった。すべての元凶は、あの山にある。
「やはり、氷の山……“眠りの山”ですね」
前世で、こんなふうに地図を描いたことがある。
客足の落ちた店の周りを歩き、人の流れや競合の位置を書き込んで、不振の“震源”を探った。
手法は同じだ。
見えない異変も、丹念に足で歩けば、必ず形になって現れる。
◇
調査の合間。わたくしには、もうひとつ、やらずにはいられないことがあった。
ニルスに、あたたかいものを食べさせること。
たとえ味が分からなくても、せめてあたたかいものを。
そう思って、わたくしはヴァルドの食材で滋養のあるスープをこしらえた。
まだ味の残る魚醤と乾物で、丁寧に出汁をひいて。
「ニルスくん。少しでいいから、飲んでみて」
匙をその小さな口元へ運ぶ。
少年は、もう何を食べても同じだと諦めた顔で口を開けた。
けれどひと口すすって、その目がふっと見開かれた。
「……あれ。あったかい」
「そう。あたたかいでしょう?」
「うん。おなかが、ぽかぽかする。ひさしぶり。こんなの、ひさしぶりだ」
味は感じられなくても、あたたかさは伝わる。
冷えきった体に、滋養のあるスープがじんわりと染み込んでいく。
少年の青白い頬に、ほんのわずか赤みが差した。
それを見て、わたくしは確信した。
味は奪われても、料理が人を支える力まで奪われたわけじゃない。
あたたかさ。滋養。そして、誰かが自分のために作ってくれたという心。
それは、ちゃんと届く。だったら、わたくしにできることは、まだある。
「リーセさん。集落の皆さんにも、あたたかいスープを配りましょう。味は戻せなくても、せめて体を温めて、生きる力を繋ぎとめる。その間に、わたくしが必ず原因を断ちます」
そうしてその日、久しぶりに、集落のあちこちで、湯気の立つ椀を手にする人々の姿があった。
味はなくとも、誰かが自分のために作ってくれた、あたたかいもの。
すすった老人が、ぽつりと「……あったかいねえ」と呟いた。
その目に、わずかな光が戻る。消えかけた灯が、かすかに、揺れて燃えるように。
◇
その夜。族長の館で、わたくしはアルヴィスとリーセに、調査の結論を告げた。
「原因は北の氷の山。“眠りの山”にあります。間違いありません。わたくしは、そこへ行きます」
リーセの顔がさっと青ざめた。
「そんな……! あの山は、決して近づいてはならない禁忌の地です! 古い言い伝えでは、足を踏み入れた者は、二度と帰らないと……!」
「それでも、行かなければなりません」
わたくしはまっすぐに言った。
「原因がそこにある以上、逃げていては何も変わらない。ニルスくんも、ノルドの皆さんも、味のない世界でゆっくりと衰弱していくだけ。わたくしは、それを見過ごせません」
アルヴィスが静かに頷いた。
「おれも行く。——どんな“眠れるもの”が待っていようとな」
すると、ずっと俯いていたリーセが、顔を上げた。
その青い瞳に、迷いと、それを振り切る決意が、揺れている。
「……わたしも、ご一緒します」
「リーセさん? でも、あの山は——」
「ええ。禁忌の地です。幼い頃から、近づくなと、何度も言い聞かされて育ちました」
リーセは、震える声で、けれどはっきりと言った。
「でも、掟を守って、ただ村が滅びるのを待つくらいなら。掟を破ってでも、弟を、皆を、救いたい。——それに、わたしはノルドの娘です。あの山へ至る雪道を、誰よりよく知っています。お二人だけでは、たどり着く前に、雪に呑まれてしまう」
その覚悟に、わたくしは胸を打たれた。
彼女は、ただ助けを求めるだけの人ではなかった。自らも、危険の中へ踏み出す勇気を、持っている。
「……ありがとうございます、リーセさん。心強いです」
族長は、娘の決意を、止めなかった。
ただ、皺だらけの手で、リーセの肩を、ぎゅっと握った。
万感の、こもった手だった。
「……どうか、無事で。三人とも」
凍てつく北の山。そこに眠る、得体の知れない何か。
それでもわたくしたちは、進むと決めた。
味の失われた世界の、そのいちばん深い核心へと。
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